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次の御門嵯峨天皇と申しき。桓武天皇の第二の御子。平城天皇のひとつ御腹なり。大同元年五月十八日に東宮に立ちたまふ。御年廿一。同四年四月十三日に位に即きたまふ。御年廿四。弘仁元年正月に太上天皇ならの都にうつり住み給ふ。中納言種繼のむすめに內侍のかみと申しゝ人をおぼしめしき。そのせうとの右兵衞督仲成心落居ずして妹の威をかりてさまざまの橫さまの事をのみせしかども、世の人はゞかりをなしてとかくいはざりき。內侍のかみも心さましづまり給はざりし人にて太上天皇に事にふれて位を去り給ひにし事の口をしきよしをのみ申し聞かせしかば、悔しくおぼす心やうやういで來給ひし程に、九月に內侍のかみ太上天皇を勸め奉りて位にかへり即きてわれ后に立たむといふ事いできて、世の中しづかならずさゝめきあへりし程に、御門內侍のかみのつかさ位をとり給ひ、仲成を土佐國へ流し遣すよし宣旨を下させ給ひしに、太上天皇大きに怒り給ひて十日丁未幾內のつはものを召し集め給ひしかば、御門關をかためしめ給ひて田村麿の中納言の大將と申しゝを俄に大納言になし給ひてき。事既におこりにしかばかねて將軍の心を勇まさせ給ひしにこそ。さて十一日に太上天皇軍を起して內侍のかみとひとつ御輿にたてまつりて東國の方へむかひ給ひしに、大外記上毛頴人ならより馳せ參りて「太上天皇既に諸國の軍を召し集めて東國へ入り給ひぬ」と御門に申しゝかば、大納言田村麿、宰相綿麿をつかはしてその道を遮りて仲成を射殺してき。太上天皇の御方の軍逃げうせにしかば、太上天皇すぢなくて歸り給ひて御ぐしおろして入道し給ひてき。御年三十七なり。內侍のかみみづから命をうしなひてき。おそ