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ろしかりし人の心なり。太上天皇の御子の東宮を捨て奉りて御門の御弟の大伴親王とて淳和天皇のおはしましゝを東宮に立て申させ給ひき。すべて太上天皇の御方の人罪をかうぶる多かりき。同二年正月七日初めて靑馬を御らんじき。廿三日に豐樂院に出給ひて弓あそばして親王以下射させ奉らせ給ひしに、御門の御弟の葛井親王はいまだ幼くおはして弓射給ふうちにもおぼしよらざりしを、御門たはぶれて「親王幼くとも弓矢をとり給ふべき人なり。射給へ」とのたまはせしに、親王たちはしりて射給ひしに二つの矢みな的に當りにき。生年十一にぞなり給ひし。母方のおほぢにて田村麿大納言その座に侍りて驚き騷ぎ喜びて、えしづめあへずして座を立ちてうまごの親王をかき抱き奉りて舞ひかなでゝ御門に申していはく「田村麿むかし多くの軍の將軍としてえびすを討ち平げ侍りしは唯御門の御威なり。つはものゝ道を習ふといへどもいまだ極めざる所おほし。今親王の年幼くしてかくおはする、田村麿更に及び奉るべからず」と申しき。今もむかしも子孫を思ふ心はあはれに侍る事なり。さてほどなく五月廿三日に田村麿うせにき。年五十四になむなりし。かたちありさまゆゝしかりし人なり。丈五尺八寸胸のあつさ一尺二寸、目は鷹のまなこの如く鬚はこがねの絲すぢをかけたるが如し。身を重くなすときは二百一斤、輕くなすをりは六十四斤、心にまかせて折にしたがひしなり。怒れるをりは眼を廻らせばけだもの皆仆れ、笑ふ時はかたちなづかしく幼き子もおぢ恐れずいだかれき。たゞ人とは見え侍らざりしなり。同四年正月に御齋會のうち論義は始まりしなり。今年冬嗣山階寺の內に南圓堂を建て給ひにき。その時藤氏の人僅