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もるこしよりかへり給ひて天臺の法文これよりひろまりしなり。

     第五十二平城天皇〈天長元年七月七日崩。年五十一。葬楊梅陵。〉

次の御門平城天皇と申しき。桓武天皇の御子。御母內大臣藤原良繼の女、皇后乙牟漏なり。延曆元年十一月廿五日に東宮に立ち給ふ。御年十二。早良親王の御かはりなり。同六年五月に御元服ありき。大同元年五月廿八日に位に即き給ふ。御年三十二。世を知り給ふ事四年なり。御心さとく御ざえかしこくおはしましき。十一月に天臺の受戒はじまりき。今年崇道天皇の御ためにやましなに八島寺を建てたまひて諸國の正稅の上分を奉りて祈りしづめたてまつり給ひき。御門位に即き給ひし日、御弟のさがのみかどを東宮に立て申させ給ひたりしを、御門すて奉らむの御心ありしに、冬嗣の東宮の傅にておはせしがかゝる事なむ」と吿げ申し給ひしかば、東宮おぢ恐り給ひて「いかゞせむずる」とのたまはせしかば冬嗣「この事今日あす既に侍るべきことにこそ。人の力の及ぶべきにあらず。父みかどの陵に祈り申したまふべきなり」と申し給ひしかば、東宮日の御さうぞく奉りて庭におりて遙に柏原の方を拜し、雨しづくと泣きうれへ申させたまひしに、俄に烟世の中にみちて夜の如くになりにしかば、御門驚きおのゝき給ひて御占ありしに、柏原の御祟と占ひ申しゝかば、御門おほきに驚き給ひてこの事を陵に悔い申させ給ひしかば、二日ありて烟やうやううせにき。同二年十月廿二日に弘法大師もろこしよりかへり給へりき。東寺の佛法これよりつたはれりしなり。この大師あらはに權者とふるまひたりき。御手ならびなく書かせ給ひしかば、もろこしにても御殿の