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八年九月二日惠美の大臣私に太政官の印をさして事を行ふといふことを、大外記比良麿忍びやかに申したりしかば、十一日に太上天皇少納言をつかはして鈴印ををさめさせしめ給ひしを惠美の大臣聞きつけてその道に我が子の宰相といひしをやりて奪ひとゞめさせしかは、又太上天皇人を遣して射殺させしめ給ひしに、大臣の使又相互に射殺してき。かゝる世のみだれいできて大臣つかさ位とられ、關を固め軍を起して討たしめむとし給ひしかば、大臣その夜逃げて近江の國へ行きしに、御方の軍外の道よりさきに至りて勢田の橋を燒きてき。大臣これを見て高島郡の方へにげて小領といふものゝ家にとまれりしに星の大きさもたゐの程なりしが、その屋の上におちたりし、いかなる事にてか侍りけむ。さて越前の國に行きて相具したりし人々を「これは御門におはす、これは上達部なり」など僞りいひて、人の心をたぶらかしき。かくて御方の軍追ひいたりて攻めしかば、大臣また近江の國へかへりて船に乘りて逃げむとせしほどに、あしき風吹きておぼれなむとせしかば、船よりおりて相戰ひしほどに、十八日に大臣うちとられにき。その頭をとりて京へもて參れりしにこそ。おなじ大臣と申せども世のおぼえめでたくおはせし人の時の間にかくなり給ひぬるあはれに侍りしことなり。又心うき事侍りき。その大臣のむすめおはしき、色かたちめでたく世にならぶ人なかりき。鑒眞和尙の「この人千人の男にあひ給ふ相おはす」とのたまはせしを、たゞうちあるほどの人にもおはせず、一二人の程だにもいかでかと思ひしに、父の大臣うちとられし日、みかたの軍千人悉くにこの人ををかしてき。相はおそろしき事にぞはべる。二十日