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王と申すは即ちこの御門におはします。かくて後この東宮に選びすてられ給ひつる王たち、また志ある人々あまたよりあひて、みかど東宮を傾けたてまつり、仲麿を失はむとすといふ事おのづからもれ聞えしかば、仲麿內にまゐりてこのよしを申しゝかば、さまざまの罪を行はれき。その程の事どもおしはかり給ふべし。この程は道鏡もいまだほひろかに參り仕うまつらざりしかば、この仲麿御門の御おぼえならびなかりき。天平寶字二年八月廿五日仲麿大保になりにき。これは右大臣をかく申しゝなり。やがてその日大將になりて本の藤原の姓にゑみといふ二文字を加へ給はせき。これらも皆太上天皇の御おぼえならびなくてせさせ給ひしなり。ゑみといふ姓も御覽ずるたびにゑましくおぼすとて賜はするとぞ申しあひたりし。又仲麿といふ名を加へておしかつとぞ申しゝ。同三年六月二日道のほとりに果物の木を植うべきよし仰せ下されき。この事は東大寺の普昭法師と申す人の申し行ひ侍りしなり。そのゆゑは國々の民往來絕ゆることなし。そのかげにやすみ、その實をとりてつかれをさゝへむとなり。いみじき功德とおぼえ侍りし事なり。八月三日鑒眞和尙と申しゝ人聖武天皇の御ために招提寺をたて給ひき。同六年六月太上天皇尼になり給ひてのたまはく「われ菩提心を起して尼となりぬれども、御門にふれてうやうやしきけ更におはせず。かやうにいはるべき身にはあらず。世の政事の常の小事をば行ひ給へ。世の大事賞罰をばわれ行はむ」とのたまはせて、この後世を行ひ給ひき。同七年九月に道鏡少僧都になりて常に太上天皇の御傍にさぶらひて御おぼえならびなかりしかば、惠美の大臣御門を恨み奉る心やうやう出できにき。同