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ば、これより諸國の放生會ははじまりしなり。同五年八月三日御門太上天皇もろともに不比等の御はてに山階寺の內に北圓堂をたて給ひき。八年二月四日御門位を東宮に讓り奉り給ひて、太上天皇と申しき。

     第四十六聖武天皇〈天平勝寳七年五月二日崩。年五十二。葬佐保山陵。〉

次の御門聖武天皇と申しき。文武天皇の御子。御母不比等の御女皇太后宮の御子なり。養老八年二月四日位に即き給ふ。御年二十五。世をしり給ふ事廿五年なり。年號を神龜とかへられにき。二年と申しゝにもろこしより柑子の種をもて來れりき。これより始めてこの國に出できそめしなり。三年と申しゝ七月に太上天皇れいならずおはしましゝ御祈に御門山階寺の內に東金堂をば建て給ひしなり。その年行基菩薩山崎の橋を造りてその上に法會をまうけて供養し給ひしに、俄に大水出でゝ流れ死ぬる人おほかりき。四年と申しゝ三月二十日泊瀨は供養せられしなり。行基菩薩ぞ導師にておはせし。天平五年七月に盂蘭盆ははじまりしなり。同六年正月十一日に、光明皇后御母の橘の氏の御ために山階寺の內に西金堂を建て給ひき。同七年吉備の大臣もろこしにとゞめられて日月をふんじたりければ、十日ばかり世の中くらくなりにけり。この事を占はしけるに「日本國の人をとゞめて歸さゞるによりて祕術をもちて日月をかくせるなり」と申しければこの國へは歸り來れりしなり。同十二年九月に太宰少貳廣繼と申しゝ人は宇合の子におはす。その人一萬人のつはものをおこして御門を傾け奉らむと謀り奉るといふ事きこえて、東人といふ人に國々のいくさ一萬七千餘人を相