Page:Kokubun taikan 07.pdf/245

提供:Wikisource
このページは校正済みです

おぼして、その時より相互におぼす事露へだてなく聞え合せ奉り給ひて、その御末の今日までも御門の御後見はし給ふぞかし。よき事もあしき事もはかなき程の事ゆゑに出でくることなり。十一月に大臣蝦夷その子の入鹿いかめしき家を造りて內裏の如くに宮門といひて、我が子どもをば皆王子となづけき。五十人のつはもの身にしたがへて出で入りに聊かも立ちはなれざりき。かくてひとへに世の政事をとれるが如くなりしかば、御門入鹿をうしなはむの御心ありき。また天智天皇のいまだ皇子と申しゝもおなじくこの事を御心のうちにおぼしたちしかども、思ひのまゝならざらむ事をおぼし恐れし程に、鎌足皇子をすゝめ奉りて蘇我宿禰山田石川麿が女をかりそめにあはせ奉りて、この事をはかり給ひき。鎌足願をおこして丈六の釋迦佛の像をあらはし奉りき。今の山階寺の金堂におはしますはこの御佛なり。六月に御門大極殿に出で給ひて入鹿を召しき。入鹿めしにしたがひて參りぬ。人の心をうたがひてよるひる太刀を佩きてなむ侍りしを、鎌足何ともなきさまにたはぶれにいひなし給ひて太刀をとかせて座にすゑ給ひつ。その後十二門をさしかためて、山田石川麿にて新羅高麗百濟この三韓の表を讀ませしめ給ひしに、石川麿この事を謀りたまふを心の中におぢ恐れ思ひけるにや、身ふるひ聲わなゝきて、えよまずなりにければ、入鹿、「いかなればかくおぢ恐れ侍るぞ」と問ひしかば「御門に近づき奉ること恐れ思ひ侍るなり」と答ふ。かくて入鹿が首を斬るべきにてあるに、その事を承りたる人二人ながらおぢ恐れ汗を流してよらざりしかば、皇子その一人を相具したまひて、入鹿が前にすゝみよりてその人をして肩を斬らせ