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らず」とおほせられしかば、一天下の人よろこびをなしき。かくて位には即き給ひしなり。三年と申しゝ正月に新羅へくすしをめしに遣したりしかば、八月に參りたりき。御門の御病をつくろはさせ給ひしに、そのしるしありて御病いえさせおはしましにしかば、さまざまの祿どもなど賜はせて、かへしつかはしてき。七年と申しゝ十二月に御あそびありしに、御門琴をひき給ふを后聞きめで奉りて、まひてうち居給ひしをり「あはれひめごをまゐらせばや」と申し給ひしを、御門「ひめごとは誰が事にか」と問ひ申させ給ひしを「御琴のめでたさにわれにもあらず申し給へりけることにや侍りけむ。さりながらも申しいだし給ひぬる事なれば隱し給ふべきならで、わがおとゝに侍るおと姬となむ申す。色かたちなむ世に又ならぶたぐひ侍らず。衣のうへひかりとほりかゞやき侍り。世の人はされば衣通姬とぞ申す」。御門これをきこしめして「それ奉り給へ」と、后を責め申させ給ひしかども、ともかくも御返事も申し給はざりしかば、御使をつかはして七度まで召しゝかども參り給はざりしかば、又御使を替へて遣したりしに、その御使庭にひれふして七日までつやつやと物を食はざりしを、御使のいふかひなく死なむことのあさましさに、おと姬うちへ參り給ひにき。御門悅び給ふことかぎりなくて、時めき給ふさまならぶべき人なかりき。この事を姉后やすからぬことにし給ひしかば、宮をべちに造りてぞすゑ奉り給へりし。四十二年おはしましゝに御門うせ給ひにしを新羅より年ごとの事なれば船八十にさまざまの物を積みて樂人八十人相副へて奉りたりしに、御門うせ給ひにけりと聞きて泣き悲ぶこと限なし。難波の津より京までこの貢物をも