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には雨風も時にしたがひ世安らかに民ゆたかなりき。位に即き給ひて次の年十月に都河內國柴垣の宮にうつりにき。

     第二十允恭天皇〈四十二年崩。年八十。葬河內國惠我長野北原陵。〉

次の御門允恭天皇と申しき。仁德天皇第五の御子。御母皇后磐之媛なり。壬子の年十二月に位に即き給ふ。御年三十九。世をしり給ふ事四十二年なり。兄の御門うせ給ひてのち大臣をはじめて「位にはこの君こそ即き給ふべけれ」とて、しるしの箱を奉りしかども、うけとり給はずして「我が身久しく病にしづめり。おほやけの位はおろかなる身にて保つべき事ならず」とのたまひしを、大臣以下猶進め奉りて「帝王の御位の空しくて久しかるべきにあらず」と、度々申しゝかども、猶聞しめさずして正月に兄御門うせおはしまして明くる年の十二月まで御門おはしまさでありしを、御乳母にておはしましゝ人の、水をとりて御うがひを奉り給ひしついでに「皇子はなど位に即きたまはで年月をばすぐさせ給ふにか侍る。大臣よりはじめて世の中のなげきに侍るめり。人々の申すに從ひて位に即かせ給へかし」と申したまふを、なほきこしめさでうち後むき給ひて、物ものたまはざりしかば、この御うがひをもちてさりともとかく仰せらるゝ事もやと待ち居侍りしほどに、十二月の事にていと寒かりしに、久しくなりにしかば御うがひもこほりて持ち給へる手もひえとほりて既にしにいり給へりしを、皇子見驚き給ひて、抱きたすけて「位を繼ぐ事はきはまりなき大事なれば、今までうけとらぬことにて侍れども、かくのたまひあひたる事なれば、あながちに遁れ侍るべきことにあ