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次の御門、村上の天皇と申しき。御諱なりあきら。これ醍醐の御門の第十四の皇子なり。御母后朱雀院の御同じ腹におはします。この御門、延長四年丙戌六月二日生れさせ給ふ。〈桂芳坊にて生れさせ給へるとぞ。〉天慶三年庚子二月十五日御元服。御年十五。同七年甲辰四月廿二日に東宮に立たせ給ふ。御年十九。同九年丙午四月廿九日位に即かせ給ふ。御年二十一。世をしらせ給ふ事廿一年。〈ある本に庚保四年五月廿五日うせさせ給ふ。御年四十二。御陵村上。〉御母后、延喜三年癸亥前坊うまれさせ給ふ。御年十九。同廿年女御の宣旨下りたまふ。御年三十六。同廿三年みづのとのひつじ朱雀院生れさせ給ふ。同四月廿五日后の宣旨かうぶらせ給ふ。御年三十九。やがて御門うみ奉り給ふ。同じ四月に后にも立たせ給ひけるにや。四十二にて村上はうまれさせ給ひけり。后にたゝせ給ふ日、前坊の御事を宮の內にゆかしがりて申し出づる人もなかりけるに、かの御めのと子に〈御めのとも〉〈五字衍歟〉大輔の君といひける女房のかくよみて出したりける、

  「わびぬれば今はたものを思へどもこゝろに似ぬはなみたなりけり」。

又御法事はてゝ人々まかりいづる日もかくこそはよまれたりけれ、

  「今はとてみ山をいづるほとゝぎすいづれの里になかむとすらむ」。

五月の事に侍りけり。げにいかにと覺ゆるふしぶし末の世まで傳はるばかりの事、いうに侍るかしな。さて前東宮におくれ奉りて限なく歎かせ給ふ。同じ年朱雀院生れさせ給ふ。われ后にたゝせ給ひけむこそ、さまざま御なげき御よろこび、かきまぜたる心ちつかうまつれ。世におほきさきとこれを申す。