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Page:Kokubun taikan 01.pdf/35

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事に觸れて思へるさまもらうたげなりき。かうのどけきにおだしくて久しく罷らざりし頃、この見給ふるわたりよりなさけなくうたてある事をなむさるたよりありてかすめいはせたりける。後にこそ聞き侍りしか、さる憂き事やあらむとも知らず、心には忘れずながらせうそこなどもせで久しく侍りしに、むげに思ひしをれて心細かりければ、をさなき者などもありしに思ひ煩ひて瞿麥の花を拆りておこせたりし」とて淚ぐみたり。「さてその文の詞は」と問ひ給へば、「いさや、異なる事もなかりきや。

  山がつのかきほ荒るとも折々に哀はかけよなでしこの露、思ひ出でしまゝに罷りたりしかば、例のうらもなきものからいと物思ひがほにて荒れたる家の露繁きをながめて、蟲の音にきほへる氣色、昔物語めきておぼえ侍りし。

  咲きまじる花はいづれとわかねども猶とこなつにしくものぞなき、やまとなでしこをばさし置きてまづちりをだになど親の心をとる。

  うちはらふ袖も露けきとこなつにあらし咲きそふ秋も來にけりとはかなげに言ひなして、まめまめしく恨みたるさまも見えず。淚を漏し落してもいと耻かしくつゝましげに紛はし隱してつらきをも思ひ知りけりと見えむはわりなく苦しきものと思ひたりしかば心安くて又とだえ置き侍りしほどに、跡もなくこそかき消ちて失せにしか。まだ世にあらばはかなき世にぞさすらふらむ。哀れと思ひし程に、煩はしげに思ひまどはす氣色見えましかばかくもあこがらさゞらまし。こよなきとだえ置かず、さるものにしなして長く見るやうも侍りな