てあつた。 隼人正は其の長官で、隼人の檢校及び名帳、歌舞の教習、竹笠の造作等の事を掌つて居た。 令義解や令集解に據ると、隼人は一年交代で、班を分つて奉祀し、非番在家の者は課役・兵役等、常人に同じであつた。 寶龜二年三月隼人の帯劍が停められたが、之はこの隼人司の下の隼人の事である。 隼人司は其の後、大同三年正月、衛門府に併せられたが、同年八月衛門府を廢するに當つて、再び隼人司を置き、兵部省に隷し、その佑一員と使部二人とを廢したが、翌四年三月には、史生二員を置き、元慶元年十二月に至つてまた佑一員を復する事となつた。
延喜式隼人司の條に據れは、元日・即位及び蕃客入朝等の儀式には、隼人司の官人三人・史生二人が、大衣二人・番上の隼人廿人・今來の隼人廿人・白丁隼人一百卅二人を率ゐて應天門外の左右に陣し、群官初入の際、胡床より起ち、今來隼人が、吠聲三節を發するのであつた。 但し蕃客入朝の儀式には吠聲は用ゐられない。 その服装は、官人は位階相當、横刀を帯し、大衣及び在番の隼人は、横刀・白赤の木綿・耳形鬢を著け、自餘の隼人は大横布衫・布袴緋帛の肩巾・横刀・白赤の木綿・耳形鬢を著け、楯槍を執つて胡床に坐するのである。 且つ五畿内■に近江・丹波・紀伊等の諸國は、毎年大帳使に附して隼人の計帳を官に進め、更に班田の年には同じく田籍を進めしむることゝなつてゐた。
右の官人三人とは正・佑・令史の三人を指し、史生二人とは大同年間新置のものである。 次に
次に在番の隼人、即ち番上隼人とは、續日本紀霊龜二年五月の條に、六年相替隼人と載せ、又天平寶字八年正月の條に大隅・薩摩等の隼人相替るとあり、更に日本後紀延暦廿四年正月に大替隼人とあるものの名残で、前述の如く、六年毎に薩隅兩國から進めて居たが、その廢止後は、五畿内及び近江・丹波・紀伊等の國に居住して居る隼人の内から、優良なる者を選んで之に任ずるのであつて、最