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る。此の大塚に近く、前方後圓墳(役所塚・薬師堂塚等)と、福留塚以下の圓墳が百餘基密集し、小なるは高二尺、徑一間に過ぎない。 而して大塚以外にも幅二間の湟を有するものがあり、また大塚より採集せし土器の破片には埴輪の残片があつた由である。副葬品は前記大塚古墳内の甲の外餘り詳かでないが、大塚神社所収の鏡鑑は右の古墳中より出でしものかと傳へられて居る。而してこの一帯の古墳群は既に史蹟に指定されてゐる。

 以上塚崎・唐仁町の兩古墳群は肝屬川を隔てゝ相對して居る、蓋しこの川は古墳時代盛んに利用され、當地方は當時聚落として最も繁榮した地域と想像され、後に説明するが如く、此の地方は奈良朝以前には大隅郡であり、次いで大隅國の建置された土地であるから、兩古墳群附近は大隅國の中心地域であり、恐らく此等の古墳地域は大隅國造一族が繁衍した地域であつたかと推測される。 この國造は、薩摩の、阿多氏が君姓なるに對し、早くより他の地方の國造と同様に直姓を賜はり、天武天皇の御代賜姓の際にも、この國造のみが薩隅地方に於て唯獨り忌寸姓を賜はつた事は、早くより中央に接近した爲と考へざるを得ない。從つて早く中央文化を採用し、大塚の如き廣大なる古墳を經營し