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たと考へられるのである。

第二圖 横瀬古墳出土埴輪

 横瀬古墳は唐仁町より直徑約一里半、北方より少しく東海岸に近い地に存し、今大崎村に屬し、小字をエサイと云ひ、此れも亦大塚と呼ばれて居る。 後圓部の高さ八間三尺、前方部の高さ七間二尺の前方後圓墳で、縱徑約六十五間に及び、猶ほ埴輪圓筒が並列して居た事など、往時の荘麗を忍ばしむるものがある。 古墳は現今周圍の田畑耕作のために侵蝕されし形迹もあり、埴輪の如きも多くは破壊され、或は他に持去され、唯破片を残すに過ぎないが、樹木鬱蒼として遠望するに形状甚だ整美である。附近には陪塚らしきものも存して居たと傳へられ、又石槨の上部が露出して居るけれど副葬品は詳かでない。 なほ最近、志布志の東方約一里の夏井部落より南方に突出するダダリ崎の飯盛山が前方後圓墳である事が發見された、横瀬・唐仁町等の大塚に次ぐ巨大なものとされてゐる。

 以上は特に前方後圓墳のみを記したのであるが、圓墳に至つては大隅平原の各地に存し、又明治まで存在したと傳ふるものも尠くない。 しかし以上の地方を除けば、縣下殆んど封土を有する古墳を見ないのである。 只僅に國分地方及び出水郡に圓墳らしきものが現存するが、果して然るか未だ詳かでない。尚ほ種子島にも三四圓墳らしいものがあるけれど、いづれも不確實と云はねばならぬ。

 しかし、封土を設けざる地下式古墳に至つては、大隅平原及び北薩に多く、これは地下式土壙と組合せ石棺との二種類に分つ事が出來る。 前者は地下に横穴式古墳を摸せしが如く思推せらるゝものであつて、地下に深さ數尺の竪穴を設け、それより横に羨道ありて玄室に通ずるのである。 大隅平原に於いては、富山・檢見崎・姶良の麓・塚崎・岡崎・大塚原等に多數存在せしも、地下の事なれば、多くは道路開鑿の際、或は陥没によつて發見されたのであつたため、原型を留めるものは殆んどなく、僅に斷崖上に遺蹟を残す丈であるが、此の土壙は古墳