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 彼女の横顔には見覚えがあった。彼女は土井の顔馴染の或るカフェの女給だった。

「うーむ」

 土井は呻いた。

「やられた!」彼は心のうちで叫んだ。

 彼には途々怪老人の話した謎のような言葉が、少し分りかけて来た。その女給は無論土井に取っては顔馴染以上の何者でもなかったけれども、老人は変に誤解しているのかも知れない、間男をすれば、生かしちゃ置かないと云った彼の言葉が思い出された。土井は怯えた眼でジロリと老人を見た。

 老人の眼は爛々と輝いていた。顔は興奮で燃えているらしく、赤銅色の皮膚にはそれとは分らなかったが。守宮やもりのへばりついたような疵痕が、以前まえにもしてクッキリと、赤味がかって鮮かに浮び出ているのだった。

 誘き寄せられたのだ! 人殺しを見せると云うのは、即ち土井自身の身の上の事だった。死に直面した戦きが、全身に電光のように伝わった。

 嫉妬に狂った兇暴な老人は生中なまなかな言葉で云いなだめる事は出来ないであろう。土井は一生ママ懸命に勇気を奮い起しながら、今にも老人の手に匕首あいくちひらめくかと、彼の一挙一動を、息を凝らして睨めつけていた。

 果して、怪老人は懐中から一ふりの短刀を取り出した。それはつかに青貝を螺鈿らでんした見事な短刀だった。老人は暫らくそれを眺めた末、キラリと抜き放した。土井はステッキを握りしめた。

 が、次の瞬間に土井はホッと息をついた。老人は彼には目もくれず、ツカツカと縛られている女の傍へ寄った。

 土井は今まで考えていたことが、全く杞憂に過ぎなかった事を発見した。

 近づいて来る足音に、女は恨めしそうな顔を捻じ向けて、まともに土井の方に面したが、それは土井の顔馴染の女給とは全く別人だった。彼女は思ったよりけて三十近くに見えたが、素顔とも思えない程色の白い、土井の思い違いをした女給とは段違いの、眉と眼の美しい女だった。はだけた胸からは、雪のような肌が見えて、覗けば透いて見えるであろう乳房のふくらみが、つく息と共に、藤紫の襟をかすかに顫わしていた。縛られた手は二の腕まで捲くれて、手首に喰い込む縄目が痛々しかった。

 女に近寄った老人は抜き放した短刀で、縄をズタズ夕と切解きりといた。口の中から、含ませてあった綿のようなものを取出した。

 女は自由の身になった。

 しかし、彼女は声を立てようともせず、逃げようともせず、老人の足下にひれ伏して、わなわなと顫えるのだった。

 老人はビクビクする犠牲いけにえと、冷たい短刀の切尖きつさきとを見比べながら、ニタニ夕と物凄い笑を洩らした。

 土井はこの恐ろしい光景を眺めているうちに、大変な事を思い出してしまった。


 今を去る事二三ヶ月以前、未だ暑い頃だったが、府下某市の刑務所で、実に巧妙な脱監が行われた。脱監囚は由利ゆり鎌五郎かまごろうと云う凶悪強盗犯で、彼は前科数犯を重ねて、最長期の懲役を課せられていたのだった。或る晴たママ日の朝、看守某は由利を初め数名の囚人を鎖に繫いで、市外の多摩川沿岸で築堤工事の労役に従事させるために、某地点まで護送して来たところ、前方から一台の自動車が疾走して来て、逃げ惑う囚人の間に割って這入り、あっと云う間に、由利を櫟き倒してしまった。