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「いや」土井は返事に困って、唾を呑み込みながら、「そんな事はしまいよ」

「じゃ、どうするんです」

「どうするって、人にも依るだろうが、どうも、こいつは処分がむずかしいね」

ほうっとくんですか」

「抛っときもしまいが――」

「じれってえんですね」老人は嘲るように、「つまり紳士的とか云うんですね、旦那方は。女房が間男をしても、そっとして置くんですかい」

 挑戦するように云ったが、土井が返事をしなかったので、老人は言葉をついだ。

「こちとらあ、手っ取り早いんでさあ。生かしちゃ置きませんや」

 土井は急にこの老人が気味悪く感ぜられた。一体彼は何者だろう。人殺しを見せると云うのは本気なのだろうか。それとも彼は土井を強請ゆすろうと云うのだろうか。土井は少し怯気おじけがついて来た。しかし彼には未だ十分な酒の勢が残っていたのと、この老人が危害を加えそうな様子もなかったので、彼は黙って老人と歩み続けたのだった。

 老人はかなり足早に横丁から横丁へと曲って行った。土井は息を弾ませながら、真暗な路を悪夢のうちに何者かに追われるような気持で、どこに伴なわれるとも知らず、老人に従って行くのだった。

 やがて、老人は狭い路地に這入ったが、突き当りの二階家の戸口でガチャガチャ音をさせた。

「好いのかい、君、そんな所を開けても」土井は心配そうに聞いた。

「大丈夫ですよ。さあ、お這入り下さい」老人はニヤニヤしながら、戸口を開けて、土井を招いた。

「ここは君の宅かい」土井は逡巡しりごみしながら云った。

「ええ、まあ、そんなものです。さあ、お上がり下さい」

 土井は思い切って、靴を脱ぎにかかった。

「早くおあがんなさい。靴のままで構いませんよ」老人はもどかしそうにそう叫んだ。

 今まで割に落着いていた老人が、何故急に気短くなったか土井には分らなかった。分らないと云えば、今までのすべてが分らない事ばかりだった。酒のために頭は混乱はしていたが、平生複雑な筋と科学的な推理を売物にしている探偵小説家の土井江南も、実際こうした怪奇な事実に突当ると、カラ意気地がなかった。何故この怪老人は深夜只一人で千束町を逍遙さまよっていたか。何故又彼は一面識もない土井をこんな所へ連れて来たのか。人殺しを見せると云うのは一体何事か。

 土井はもうすっかり面喰っていた。彼は靴を脱ぐ暇も与えられず、老人のために土足のまま追い立てるママように、二階に上らされた。

 一足ずつ階段を上るにつれて、酔が覚めて来たためでもあったろうが、土井はぞっとするような冷気を襟元から感じて、身体が細かくガタガ夕と顫えるのだった。

 後から上って来た老人は、階段を上った所で、土井を押し退けるようにして、ふすまをガラリと開けた。そこは六畳敷位の室だったが、土井は一眼覗き込むと、サッと顔色を変えた。

 そこには一人の若い女が、惨らしく両手を後の柱に縛りつけられて、なよなよと項垂うなだれているのだった。

 鈍い電燈の光に照らし出された彼女のおののいている白いうなじから、蒼白い横顔に眼を移した時、土井は思わず、

「あっ」と叫んだ。