Page:KōgaSaburō-The Bag of Manuscript Fee-1994-Kokusho.djvu/18

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近所に立っていた――背中で壁を押した。あっと云う間に彼の姿は消えた。

「逃がすなッ!」

 あっけに取られながら警部は呶鳴った。

 警官逹は忽ち四方に飛散った。或者は葛城の消え去った壁に突進し、或者は窓から屋根へ、或者は階段を飛び降りて階下へ。

 闇をつんざく呼子の音がここかしこに起った。人々の罵り騒ぐ声が、四隣あたりの静寂を破った。そちこちで雨戸をせわしくり開ける音が響いた。

 警部はいらいらしながら、窓にって下を見下していた。土井は蒼白い顔をしている女の屍体の傍に茫然ぼんやり立っていた。

 鶏のときを作る声と共に、夜は白々と明け初ママめたようだった。



 土井江南は暁方から警察署に連れて行かれた。が、幸いにもその日の午後、あの怪老人が由利鎌五郎と名乗って自首して出たので、彼は一切の口供書を取られた後、夕刻帰宅を許された。

 渋谷の寓居に帰る途中、彼はもし由利が自首して出ないか、又彼に自首する意志はあったにしても、不慮の事で死にでもしたら、どんな窮境に陥ったであろうと思うと、恐怖のために身顫いを禁ずる事が出来なかった。

 短刀を握って、惨殺された女の前に立っていた所を捕えられ、由利も姿を現わさず、葛城も来合わせなかったとしたら、土井は恐らく最低限度数年間未決に繫がれるような憂目を見た事であろう。

 土井は不機嫌な顔をして帰宅すると、心配そうに出迎えた妻に直ぐに床を延べさせ、グッスリと寝込んでしまった。

 彼が眼を覚ましたのは翌日の昼近くで、二十時間近くをぶっ通して寝てしまったのだった。

 ようやくの事で起き上ると、彼の枕許には厚ぼったい手紙が置かれていた。妻に聞くと、さっき見馴れない使いの人が見えて置いて行ったと云う事だった。不審に思いながら開いてみると、それは思いがけなくも怪盗葛城春雄から来たものだった。


 親愛なる土井江南様

 昨夜は図らずもあなたにお目にかかる光栄を得た事を喜びます。さて、私は昨夜の一見不可解な怪事件について、少しく解説をつける義務があると信じます。もっとも卓越した推理力の所有者であるあなたは既に御推察されたかも知れません。

 何から申上げましょうか、かなり複雑した事ですから、話しの端緒に苦しみますが、とにかく、あなたは新聞紙上その他で、私が由利鎌五郎の脱監を補助した事実は御承知の事と存じます。由利は自由の身になってから、自分を裏切った情婦に復響をするなどと云っていましたが、実はその事は私の知らない事で、私は単に由利が隠匿している莫大な金と宝石とを得たいために彼を救い出したのでした。

 ところが、彼もしたたか者で隠場所を中々教えないのです。もっともその時には彼が心覚えにして置いた暗号が行方不明になっていたのですから、或は彼自身に、正確に分らなかったかも知れません。そんな事で私は彼と遂に仲違いをするようになって、折角彼を救け出しながら、又もや単独で彼の隠し