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 だが、あの老人が捕まらず、いや、それよりも捕まった暁に、彼が殺した事実を否定したらどうなるか。土井は蒼くなった。

「ああ、駄目だ」土井は力なく呟いた。俺はあの老人を信じ過ぎていた。あの老人が自首すると云うので安心していたのだ。あの老人が一切そんな事は知りませんと首を振ったら、俺はおしまいだ。

 そう思うと、土井はこの親切そうな青年に対して、急に不安が募って来た。殊によったら、この青年はあの老人と共謀して、彼に殺人の罪をせようとしているのではないか。

「ああ馬鹿な事をした。俺はあの時に直ぐ警察に訴えれば好かったのだ。時が経てば経つ程、俺の話は信ぜられないに違いない。こんな所で変装なんかして、潜伏している所を捕まったら、一体どうして云い開きが出来ると云うのだ」

 土井は直ぐに飛び起きて警察へ行こうと思ったが、又思い返した。今からではもう遅い、警察ではどうして素直に彼の話を受入れてくれるものか。それにあの青年はきっと止めるだろう。そう思うと又勇気が挫けるのだった。

 土井は馬鹿らしいやら、恐ろしいやら、心配やらで、頭の中は混乱した。滅多に家を明けた事のない彼は、未だ玄関の締まりをしないで、ぼんやり待ち佗びているであろう妻の事を考えて、一種の焦燥を感じた。云い解く術もなく、捕われて投獄せられる場面を思い浮べると、後海の念がむらむらと起るのだった。

「ああ、俺は深夜の浅草を探険するなんて、馬鹿らしい事を止せばよかった」

 しかし、あの老人の突つめた態度や、抵抗らしい抵抗も試みないで、殺されてしまった女の事を考えると、老人が彼に罪を被せるために仕組んだ事とは思えなかった。女を殺して、この世の望みを果したような老人の様子は、満更嘘とも思えなかった。

「心配したって仕方がないじゃないか。どうせなるようにしかならないのだ。自分の蒔いた種だ。自分で刈るより仕方がない」

 最後に彼はどうでもなれと度胸をめた。と、今までこらえていた眠さが一時に出て来た。彼は軽いいびきを立てて寝入ってしまった。

 青年はコトコトと何か片づけものをしていたが、土井の寝入ったのを見ると、思い出したように、ポケットからさっきの原稿料の袋を出して、電燈に照らしながら眺めてみたが、みるみる彼の顔には喜悦の色が溢れた。彼は急いで袋を元の通りポケットに捻じ込むと、土井の方をチラリと見やって、忽ち室の外へ出て行った。



 哀れな土井江南はその夜、何と云う呪われた運命に置かれたのだったろう。彼は心身共に疲れ果てて、鼾と共に怪しい青年の寝台に斃れるように、寝入ったのだったが、ものの三十分も経たないうちに激しく揺り起された。彼の寝入った時間の少かった事は、彼が寝台に潜り込んだ時も真夜中だったし、寝台から引摺り出すようにして起された今も、相変らず真夜中であった事でも分る。

 寝呆け眼をこすりこすり四辺あたりを見廻すと、土井の廻りには犇々ひしひしと警官が詰めかけていた。

「葛城、とうとう捕まったな」古株らしい警部が憎々しげに云った。

「もう、ジタバタしても駄目だぞ」もう一人の警部が云った。

「さあ、お縄を頂戴しろ」