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「とくちやんはね」彼女はいつの間にか警戒を解いて、喋り出すのだつた。

「どうもあの人を知つてるらしいの。私は知らなかつたけれども、他の人の話では、この前あの人が来た時に、ハッと顔色を変えて、奥へ逃げ込んだのですつて」

「ふん、それから二度目にはどうしたい」

「嫌な訊き方をするのね、こちらは」彼女は鳥渡顔をしかめながら、

「それつきり、とくちやんはあの人と顔を合さないでしようよ。休んじやつたから」

「いろいろの他人の事を聞いちやつたね。他人の事じや一向始まらん」彼はいかにも詰らなそうに云つたが、直ぐ次の言葉をつけ足した。

「そろ帰るとしよう。君、会計を頼むよ」

「あら、もうお帰り」

 彼女は顔の筋一つ動かさず、事務的に答えながら、助かつたと云う風に、忽ち腰を振り大股に帳場の方に行つた。

 小男は何と思つたか、ヒョッコリ立揚ママつて、指揮杖󠄀を抱えながら、隣りの卓子にツカと近寄つて、先刻自家の犬を殺されとママ云つて、ブルドック事件を説明した男の顔を覗き込むようにしながら、

「失礼ですが、先刻のお話のお宅のブルドックの首環ですね。あれは金具で疣々がついていましたかそれとも革ばかりで飾りのないものですか」

 だしぬけに話しかけた異様な男の顔を、吃驚したように暫く眺めていた青年は、漸くの事で返辞ママをした。

「首環は革ばかりです。疣のような飾りはついていませんでした」

「どうも有難う。ブルドック事件は実に奇妙ですな。あなたは大分お委しいようですが、未だ研究が足りませんよ。何故首環が盗まれるか、又󠄂盗まれないか、ね、そこですよ。よく考えて見るんですね」

 彼はそう云うと、呆気に取られている青年に一瞥も与えないで、さつさと自席に帰つて、恰度女給の持つて来た勘定書に、そゝ くさと支󠄂振ママいをした。



 大通りはすつかり寝静ママつていた。喑澹とした空の下に、雨気を含んだねつとりとした風が、