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を見せてくれませんか」

 「あれは駄目です」若者は首を振った。「見せられません」

 「見せられない、どうして?」

 「あれは売物じゃないのです」

 「売物じゃない」繁造は呆れたように繰返したが、「売物でなくてもちょっと位見せてくれても好いだろう」

 「ところがいけないのです、誰にでも手を触れる事はお断りしてあるのです」

 「不思議な話だ!」老実業家は腹立しそうに叫んだが、「じゃ一体どうした品なんだね」

 「他所様よそさまからお預りしているのですよ」

 「それをまた何のためにあそこへ出しておくのだね」

 「主人の命令いいつけですから、私は知りません」

 「では、とにかく、あれは売らないのだね」

 「ええ、売りません」

 「いくら出しても」

 「ええ、いくらお出しになりましても売りません」

 老実業家はプンプンして店を出た。骨董店が飾窓へ品物を飾っておきながら、売らないという法があるものか。それにあの店員の無愛想極まる態度は何だと、繁造はひどく腹を立てていたが、そこは金をあり余るほど持っている我儘わがままな実業家に有り勝ちな事で、いくらでも売らぬと云われると、なおさら欲しい。金を山と積んでも、我手に入れたい。高が水晶の角玉だけれどもそれが例の碁盤の裏に隠してあったらしいものと、寸法が頗るく似ているという事と、飾窓に勿体らしく置かれているという事としかもいくら出しても売らないという事などが、痛くこの老実業家の好奇心を刺戟した。どうしてでも手に入れてやるぞ。こうなると意地になるのが彼の癖だったから、その後二回ばかりその店に行った。そうして同じような押問答をして、いつも空手で帰って来た。

 物事が思うようにならないと、いらいらするのが人の常だが、してや我儘な老人の事であるから、ひどく機嫌が悪くなって、家の人や事務所の事務員に当り散らした。当り散らされた方ではまた始まったと思いながら、出来るだけ逆らわないようにしていた。

 四五日経って、繁造老人は自分の力だけではあの水晶の玉が容易に手に這入らぬと見切をつけたのと、水晶の玉にばかり掛ってられぬ用事が出来たので、彼は総領の繁太郎を呼んで碁盤の足の事から話出して、是非その玉を買取るように命令いいつけた。

 一伍一什いちぶしじゆうを聞いた繁太郎は、年が若いだけにひどく碁盤の方に興味を持った。

 「宜しい。きっとその玉を手に入れてみましょう。で、お父さんいくらまで出すんです」

 「千両まで出す、もし買えたら骨折料として貴様に百両やるよ」

 「一週間暇を下さい」

 繁太郎は抜目なく云った。彼は二三年前に大学を出て、父の経営している会社に、重役秘書という名で、勤めているのだった。

 「一週間は長過ぎるなあ」繁造は暫く考えていたが、水晶の玉がよくよく欲しかったと見えて、「宜しい、休暇をやろう。その代りきっと手に入れるのだぞ」


 繁太郎は早速碁盤を調べてみた。しかし、父が既に調ベた以外に格別新しい発見をする事は出来なかったので、碁盤を買入れた店に電話で出所でどころを聞き合せた所が、埼玉県下の某豪農の所持品という事が分っただけでそれ以上委しい事は分らなかった。それでなお出来るだけ委しい事を調べてもらう事を依頼して、第一の目的たる水晶の角玉を手に入れるべく、父から教えられた店に出かけた。

 日中はあまりに暑いので、日のずっと傾いた黄昏たそがれ近く に、繁太郎は京橋の裏通りの例の骨董店の前に立った。飾窓には父の云った水晶の玉が父の見た時そのままで飾られていた。繁太郎は別に何という事なしに暫く立止って玉を眺めていた。すると、彼の傍に寄り添って同じように窓を覗く者があったので、彼は少し場所を譲りながら、見るともなしに見ると、真白な洋服を着た美しい若い娘だった。はっと思っているうちに、彼女は窓を離れてツカツカと店へ這入って行った。

 繁太郎も無論店へ這入る積りだったが、先を越された形で、それにその店がひどく狭くって、二人の客を入れるには窮屈だったしママするので、その女客が出てからにしようと思って、入口の所に立って中の様子を見ながら待っていた。

 「今日こんにちは」娘は透き通るような声で云った。

 中にいた番頭は父の時の番頭と同じ者らしかったが、この番頭は一日中新聞を読んでいるものと見えて、この時も背向うしろむきになって、拡げた新聞に顔を埋めるようにしていたが、面倒臭そうに、

 「今日は」と答えて、振向いたが、思いがけなく若い美しい娘が立っていたので少し狼狽したようだった。娘は繁太郎の見る所ではどこかの女事務員というタイプだった。