Page:KōgaSaburō-An Old Painting in Nürnberg.djvu/10

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 一人の男はいきなり声をかけたが、それは思いがけなくも松坂の親友のやまき助作だった。彼は今度の事件について親身になって心配してくれていたのだった。八巻は直ぐに言葉を続けた。

「全く偶然なのだ。今晩宴会があってね、つい遅くなっての帰り路、自分で自動車を飛ばしたんだが、さんのうしたを通り過ぎると、パチパチと云う変な音を聞いたんだ。びつくりして前の方を見ると、一人の男が一散に逃げ出して行く、自動車のヘッドライトに照らし出された所には一人の男が斃れているではないか、急停車して降りて見ると、君、その斃れている男が、驚くじゃないか、粕谷繁松君なんだ。一発で胸元をうちぬかれてもう息は絶えているんだ。余りの事に茫然としていると、折好く一台のタキママシーが走って来て、ピタリと止ったが、中から降りて来たのがこの方でね、警察署へ知らせる事から 万事助けて頂いたと云う訳なのだ」

 一息に話をすますと、八巻は傍の人を指したので、松坂は始ママめて、つくづくその人を見た。が、なんと云う奇怪な人相の男だろう。彼は人並より余程背が低くママかったが、顔は又人並外れて大きかった。それに西洋人のようにさきの曲った鼻が又素晴らしく大きく、赤黒い顔の大部分を占領しているかと思われ、まるで妖婆のような男だった。室の中であるのに、ボーイスカウトの持つようなミリタリン・ケーンを大切そうに抱えているのが、凄いうちにも何となく滑稽味を添えていた。

「私も偶然通り合せましてな、殺された人がこのお邸の人だと云う事で、興味を持ったと云っちゃ悪いですが、何もママ縁だと思いましてな、ちよっとお邪魔に上りましたよ」

 そう云いながら彼は名刺を差出したが、それには手龍太と印刷されていた。

 松坂は一眼見た瞬間から、この男がひどく気に入らなかった。始ママめての家へ押太くツカツカ這入って来た態度も、なれなれしく心易く話しかける言葉つきも、何となくげすで、あながち容貌に左右されるのではないのだが、油断のならぬ得体の知れぬ男と思われて、こんな男を連れ込んで来た八巻に対しても、少し不平だった。しかし、無論八巻といえども喜んで連れ込んだのでない事は彼の態度でよく分ってはいた。

「死体は警官の保管に委して来たが」八巻は又話し出した。「死体の傍にはボッチチェリの春の模写らしい、大きな額が一つ落ちていたが、あれは君が今度持って帰ったものじゃないか」

「えっ、ボッチチェリの――」

 松坂は意外に思いながら、委しくその画の模様を聞くと、確かに彼が持って帰ったコレクションのうちのものだが、しかし、その画は横浜の保税倉庫の中にある筈なのであった。

 ボッチチェリの春の画と云うのは、裸体半裸体の女神達が春の林間に遊び戯れている画で、かつてこの絵の版画が、日本に持ち帰られた時に、税関吏が「春」の画を春画と誤解して、輸入を禁止したと云う笑い話のある有名な画で、この模写は松坂がパリの素人下宿の一室で、三ヶ月間眺め暮して、いよいよ引上げる時にゆずりうけたもので、彼には印象の深いものであった。

 字幕が読み切れないうちに消えてしまう映画を見ているように、それからそれへと事件が展開して、説明のつかないうちに又次の奇怪な出来事が現われるので、松坂の頭はすっかり混乱してしまって、何が何やら分らなくなり、何か云いたいのではあるが、黙り込んでいるより仕方がないと云う風に、いたずらに渇いた唇を嘗めていたのだった。

「殺されていた方の部屋を見せて頂けないでしょうか」

 重苦しい沈黙を破って、突然、異様な容貌の持主手が云った。

 意外な一言である。さつきから彼に好感を持っていなかった松坂は直ぐに答えた。