一人の男はいきなり声をかけたが、それは思いがけなくも松坂の親友の
「全く偶然なのだ。今晩宴会があってね、つい遅くなっての帰り路、自分で自動車を飛ばしたんだが、
一息に話をすますと、八巻は傍の人を指したので、松坂は始〔ママ〕めて、つくづくその人を見た。が、なんと云う奇怪な人相の男だろう。彼は人並より余程背が低く〔ママ〕かったが、顔は又人並外れて大きかった。それに西洋人のように
「私も偶然通り合せましてな、殺された人がこのお邸の人だと云う事で、興味を持ったと云っちゃ悪いですが、何も〔ママ〕縁だと思いましてな、ちよっとお邪魔に上りましたよ」
そう云いながら彼は名刺を差出したが、それには手塚龍太と印刷されていた。
松坂は一眼見た瞬間から、この男がひどく気に入らなかった。始〔ママ〕めての家へ押太くツカツカ這入って来た態度も、
「死体は警官の保管に委して来たが」八巻は又話し出した。「死体の傍にはボッチチェリの春の模写らしい、大きな額が一つ落ちていたが、あれは君が今度持って帰ったものじゃないか」
「えっ、ボッチチェリの――」
松坂は意外に思いながら、委しくその画の模様を聞くと、確かに彼が持って帰ったコレクションのうちのものだが、しかし、その画は横浜の保税倉庫の中にある筈なのであった。
ボッチチェリの春の画と云うのは、裸体半裸体の女神達が春の林間に遊び戯れている画で、かつてこの絵の版画が、日本に持ち帰られた時に、税関吏が「春」の画を春画と誤解して、輸入を禁止したと云う笑い話のある有名な画で、この模写は松坂がパリの素人下宿の一室で、三ヶ月間眺め暮して、いよいよ引上げる時に
字幕が読み切れないうちに消えてしまう映画を見ているように、それからそれへと事件が展開して、説明のつかないうちに又次の奇怪な出来事が現われるので、松坂の頭はすっかり混乱してしまって、何が何やら分らなくなり、何か云いたいのではあるが、黙り込んでいるより仕方がないと云う風に、いたずらに渇いた唇を嘗めていたのだった。
「殺されていた方の部屋を見せて頂けないでしょうか」
重苦しい沈黙を破って、突然、異様な容貌の持主手塚が云った。
意外な一言である。