Page:KōgaSabrō-The Crime in Green-Kokusho-1994.djvu/14

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 私は暫く茫然として突立っていました。何と云う奇怪な私の立場でしょうか。今まではママ一度も会った事のない紳士に、このガランとした大きな家に連れ込まれて、食物を与えられた挙句に、謎のような一言と共に、私はこの一室に置去られたのです。私はどうしたら好いのでしょうか。

 私は直ぐ彼の後を追おうかと思いました。しかし、彼の云った言葉のうちに「今夜はそれで辛抱して寝てくれ給え」と云った事を思出しました。事実、十分の空腹を充たす事の出来た私は快よい睡眠がむさぼりたかったのです。私は部屋の中を見廻して、片隅に寝台ベツドのあるのを見出し、何はとまれ、そこで眠ろうと決心しました。

 寝台ベツドに横になりますと、フカフカとして実に気持が好かったのでしたけれども、中々寝つかれないのです。どうかして早く寝ようと思えば思う程、益々眼が冴えるのでした。虫が知らせたとでも云うのでしょうか、自分の奇怪な位置にいる事が、気にかかって耐らないのです。

 そのうちに、家のどこかの隅でバサッと云う異様な音がしました。私は寝台ベツドの上に飛び起きました。

 じっと耳を澄ましましたが、物音は一度聞えたきりで、後はしーんと静まり返っています。私は暫く躊躇した末に、寝台ベツドから下りて、そっと部屋の外に出ました。

 私は恐々こわごわ音のした部屋に進んで行きました。燈火あかりだけついてガランとした大きな部屋が、いくつも続きましたが、最後にそうした部屋の一つに這入った時に、私はあっと叫んで棒立になりました。部屋は何かの研究室らしく、機械類が立並んでいましたが、一隅の床の上に先刻の紳士がうつ伏せに斃れていました。そうして背中の真中に短刀が突立っているのです。短刀の周囲から赤黒い血が流れ出ていました。私は気を取り直すと急いでその傍に寄り、短刀に手をかけると、うんと力を籠めて抜き取りました。途端に傷口からパッと血潮が飛んで、私はすっかりそれを浴びました。私は突剌っている短刀を抜き取る事が刺されている人間の利益ためだと考えて抜き取ったのですが、(ああ、それは何と云う愚な事だったでしょう!) 彼はもうすっかり縡切こときれていたので何の甲斐もありませんでした。後に裁判官からこの時に足音のようなものを聞かなかったかと訊かれましたが、夢中だった私は一向そう云う事には気がつかなかったのでした。

 私は翌朝警官に捕えられました。無論私は鳥沢殺害の有力な嫌疑者として、厳重な訊問を受けました。極力抗弁したにも係らず、遂に起訴されて、予審も有罪と決し公判に廻されました。取調べの結果短刀の切尖きつさきには毒薬が塗られていました。私の浴びた血が、果して突刺った短刀を抜き去った時のものかどうかを決定するのに三年間かかりました。私は前にも述べた通り、手弁護士の援助がなかったら、死刑に処せられていたかも知れません。ちょっとつけ加えますが、鳥沢は生前あれだけ豪奢を極めたにも拘らず、死後調べると財産らしいものは緑林荘の他に何にもありませんでした。世人がそれを非常に不審がったのは無理のない事でした。



 私は度々云った通り、生れながらのボへミヤンで、家もなく親もなく、諸国を旅から旅へと放浪して歩いて、師を取って覚えたのではない我流の画を描き、ようやく口を糊して、時には饑餓に迫る事もありましたが、割に快活な性質を失わず、希望も棄てなかったのでしたが、恐ろしい殺人の冤罪を着て、三年間未決監に呻吟している間に、すっかり気質が変りました。今までとは打って変って陰鬱になり、猜疑心が強くなり、希望を全然失ってしまいました。証拠不十分で出獄する事になっても、格別嬉しいと思わず、出獄のその日に飄然と八ケ嶽山中に向って出発して、かねて覚悟していたよう