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で』とある。しかし、また同書卷之九に『意氣なさけの源』とあるやうに、意識現象に「いき」の語を用ひる場合も多いし、「春色辰巳園」卷之三に『姿もな米八』と云つてゐるやうに、客觀的表現に「粹」の語を使ふ場合も少なくない。要するに「いき」と「粹」とは意味內容を同じくするものと見て差支ないであらう。また、たとへ一は特に意識現象に、他は專ら客觀的表現に用ひられると假定しても、客觀的表現とは意識現象の客觀化にほかならず、從つて兩者は結局その根底においては同一意味內容をもつてゐることとなる。

(七)Stendhal, De l'amour, livre I, chapitre I.

(八)Kellermann, Ein Spaziergang in Japan, 1924, S. 256.