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Page:Iki-no-Kozo.djvu/45

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に至る迄も一切が薔薇色(七)』ではない。「いき」の色彩は恐らく『遠つ昔の伊達姿、白茶苧袴』の白茶色であらう。

 要するに「いき」とは、わが國の文化を特色附けてゐる道德的理想主義と宗敎的非現實性との形相因によつて、質料因たる媚態が自己の存在實現を完成したものであると云ふことが出來る。從つて「いき」は無上の權威を恣にし、至大の魅力を振ふのである。『粹な心についたらされて、噓と知りてもほんまに受けて』といふ言葉はその消息を簡明に語つてゐる。ケレルマンがその著「日本に於ける散步」のうちで、日本の或る女に就いて『歐羅巴の女が嘗て到達しない愛嬌を以つて彼女は媚を呈した(八)』と云つてゐるのは、恐らく「いき」の魅惑を感じたのであらう。我々は