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脫の心を失つて行つた場合には『またいとしさが彌增して、深く鳴子の野暮らしい』ことを託たねばならない。『蓮の浮氣は一寸惚れ』といふ時は未だ「いき」の領域にゐた。『野暮な事ぢやが比翼紋、離れぬ中』となつた時には既に「いき」の境地を遠く去つてゐる。さうして『意氣なお方につり合ぬ、野暮なやの字の屋敷者』といふ皮肉な嘲笑を甘んじて受けなければならぬ。およそ『胸の煙は瓦燒く竈にまさる』のは『粹な小梅の名にも似ぬ』のである。スタンダアルのいはゆる amour-passion の陶醉はまさしく「いき」からの背離である。「いき」に左袒する者は amour-goût の淡い空氣のうちで蕨を摘んで生きる解脫に達してゐなければならぬ。しかしながら、「いき」はロココ時代に見るやうな『影