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であることを主張して、三神說の誹りを甘受した。我々は「いき」の理解に際して universalia の問題を唯名論の方向に解決する異端者たるの覺悟を要する。卽ち「いき」を單に種槪念として取扱つて、それを包括する類槪念の抽象的普遍を向觀する「本質直觀」を索めてはならない。意味體驗としての「いき」の理解は具體的な、事實的な、特殊な「存在會得」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問ふ前に、先づ「いき」の existentia を問ふべきである。一言にして云へば「いき」の硏究は「形相的」であつてはならない。「解釋的」であるべき筈である(四)。
然らば、民族的具體の形で體驗される意味としての「いき」は如何なる構造をもつてゐるか。我々は先づ意識現象の名の下に