Page:Iki-no-Kozo.djvu/165

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に、くれなゐのはちす、始めて開けたるにやと見ゆ』といふ場合の「意氣ざし」は、『息ざしもせず窺へば』の「息差」から來たものに相違󠄄ない。また「行」も「生きる」ことと不離の關係をもつてゐる。ambulo が sum の認󠄃識󠄂根據であり得るかをデカルトも論じた。さうして、「意氣方」および「心意氣」の語形で、「いき」は明瞭に「行」と發音󠄃される。『意氣方よし』とは「行きかた善し」に外ならない。また、『好いた殿御へ心意氣』『お七さんへの心意氣』のやうに、心意氣は「……への心意氣」の構造󠄃をもつて、相手へ「行く」ことを語つてゐる。さて、「息」は「意氣ざし」の形で、「行」は「意氣方」と「心意氣」の形で、いづれも「生きる」ことの第二の意味を豫料してゐる。それは精󠄃神󠄃的に「生きる」ことである。「いき」の形相因たる「意氣地」と「諦め」とは、この意味の「生きる」ことに根ざしてゐる。さうして、「息」および「行」は、「意氣」の地平󠄃に高められたときに、「生」の原本性に歸つたのである。換言すれば、「意氣」が原本的意味において「生きる」ことである。