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Page:Iki-no-Kozo.djvu/164

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(二八)ἅ ποτ᾽ εἶδεν ἡμῶν ἡ ψυχὴ (Platon, Phaidros 249c).
强調は ἡμῶν の上に置かれなければならない。但し ἀνάμνησις はこの場合二樣の意味で自己認󠄃識󠄂である。第一には ἡμῶν の尖端的强調による民族的自我の自覺である。第二には ψυχή と「意氣」との間に原本的關係が存することに基いて、自我の理想性が自己認󠄃識󠄂をすることである。

(二九)「いき」の語源の硏究は意氣の關係を存在論的に闡明することと相俟つてなされなければならない。「生」が基礎的地平󠄃であることは云ふ迄もない。さて、「生きる」といふことには二つの意味がある。第一には生理的に「生きる」ことである。異性的特殊性はそれに基礎附けられてゐる。從つて「いき」の質料因たる「媚態」はこの意味の「生きる」ことから生じてゐる。「息」は「生きる」ための生理的條件である。『春の梅󠄃、秋の尾花のもつれ酒、それを小意氣に呑みなほす』といふ場合の「いき」と「息」との關係は單なる音󠄃韻󠄃上の偶然的關係だけではないであらう。「いきざし」といふ語形はそのことを證明してゐる。『そのいきざしは、夏の池