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Page:Iki-no-Kozo.djvu/160

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いふ事實は、西洋文󠄃化󠄃にあつては「いき」といふ意識󠄂現象が一定の意味として民族的存在のうちに場所󠄃をもつてゐない證據である。

 かやうに意味體驗としての「いき」がわが國の民族的存在規定の特殊性の下に成立するに拘はらず、我々は抽象的、形相的の空󠄃虛の世界に墮して了つてゐる「いき」の幻影に出逢ふ場合が餘りにも多い。さうして、喧しい饒舌や空󠄃しい多言は、幻影を實有のごとくに語るのである。しかし、我々はかかる「出來合」の類󠄃槪念によつて取交󠄄される flatus vocis に迷󠄃はされてはならぬ。我々はかかる幻影に出逢つた場合、『嘗て我々の精󠄃神󠄃が見たもの(二八)』を具󠄄體的な如實の姿󠄄において想起󠄃しなければならぬ。さうして、