Page:Iki-no-Kozo.djvu/161

提供:Wikisource
このページは検証済みです

この想起󠄃は、我々をして「いき」が我々のものであることを解釋的に再認󠄃識󠄂せしめる地平󠄃に外ならない。但し、想起󠄃さるべきものはいはゆるプラトン的實在論の主張するがごとき類󠄃槪念の抽象的一般性ではない。却つて唯名論の唱道󠄃する個別的特殊の一種なる民族的特殊性である。この點において、プラトンの認󠄃識󠄂論の倒逆󠄃的轉換が敢てなされなければならぬ。然らばこの意味の想起󠄃アナムネシスの可能性を何によつて繫ぐことが出來るか。我々の精󠄃神󠄃的文󠄃化󠄃を忘却のうちに葬り去らないことによるより外はない。我々の理想主義的非現實的文󠄃化󠄃に對して熱烈なるエロスをもち續けるより外はない。「いき」は武士道󠄃の理想主義と佛敎の非現實性とに對して不離の內的關係に立つてゐる。運󠄃命によつて「諦󠄂