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 吾田の笠狹の碕と千擡との中間地方日置郡内に聖跡存せざることは聊か不思議に堪へないことである。

第一章 沿革

第一節 日向、薩摩、阿多

 日向とは上古に於ける薩、隅、日三州の總稱であるが其の以前には、曾の國又は熊曾の國といふた。古事記の所謂筑紫島四ヶ國、筑紫國、豊國、肥國、熊曾國の夫である。熊曾國は又建日別ともいふのである。

 日向から薩摩、大隅兩國が分れた時代は明らかではないが、國造を日向に於かれたのは天皇第十五代應神天皇の御代にて薩摩、大隅に國造を置かれたのは第十六代仁徳天皇の御代である。又隼人を分ちて大角、薩摩の二國となし長を置きて之を領せしめられ其の下に囎唹隼人、大角隼人、肝衡隼人、多褹隼人、薩摩隼人、阿多隼人、甑隼人、今來隼人、日向隼人などを屬せしめられたのは仁徳天皇の御代であるから、大角、薩摩の國名は此の時代頃に始まつたやうである。

 續日本紀文武天皇大寶二年の條(仁徳天皇より二十六代の後)に『八月丙申朔薩摩、多褹、隔代逆命於是發兵征討遂校戸置吏焉』と又『同年九月戌寅討薩摩隼人軍士授勲各有差』とあるから、文武天皇以前から薩摩といふ地方があつたことが分る。又續日本紀に元明天皇の和銅六年(仁徳天皇より二十七代の後)日向國から肝坿、囎唹、大隅、姶良の四郡を割いて大隅國となしたことが記されてゐる。

 抑國縣を分ち邑里を定められたのは天皇第十三代成務天皇の御代にて第三十六代孝徳天皇には國、郡の制を定められたのであるが、第四十三代元明天皇の和銅以前に於ける國名中の西海道の部には、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、壱岐島、對島、多褹嶋の名はあるが、大隅國の名はないのである。而して和銅五年九月に出羽國同六年に丹波、美作、大隅國を置かれたことになつて居るから、元明天皇時代の建國が事實で仁徳天皇時代の大隅國造や大角隼人などといふのは正式の建國といふべきものではなかつたのであらう。

 第六十代醍醐天皇延喜式を撰まるゝや國、郡名を二字の嘉名とし國を大國、中國、小國の三に分ち帝都を中心として遠中近の三等に分たれた、薩摩、大隅、日向は中國に屬し遠國となつてゐる。この上り十二日は租庸調などの正税や雑税を輸送する爲行程遅きによるのである。

 中世に至り九州を三分し前三ヶ國、後三ヶ國、奥三ヶ國と呼んだことがある。前三ヶ國とは、筑前、肥前、豊前、のこと、後三ヶ國とは筑後、肥後、豊後のこと、奥三ヶ國とは薩摩、大隅、日向のことである。

 吾田、阿多、隼人、唱更國などの名は記紀に多く見えてゐるが、是は必ずしも國名ではなく一の地方名である。吾田は又婀娜郡、英田、阿加多にも作られアガタと同一であると解する學者もある。天孫瓊々杵尊の妃木花開耶媛は神吾田津媛といひ吾田の大山祇命の女又神武天皇の妃阿比良比賣は吾平津姫といひ、阿多の小椅君の妹である。日本書紀に依れば火闌降ホノスセリ命は吾田小椅等の祖であるから、吾平津媛などは火闌降命の後裔にて吾田地方に住したる一民族なりしものと思はる。 此の吾田は南部薩摩の稱にて其の地名は現在の阿多村に其の名残りを止めてゐるのである。建久二年源