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頼朝が阿多四郎宣澄から其の領地谷山郡、伊作郡、日置南郷、北郷の地を収めて島津忠久に其の地頭職を命じたととなどから稽へて阿多といふ地方は日置地方を含んで居つたことが窺はるゝやうである。

第二節 院の名義と郡名

 院といふ名稱は薩、隅、日三州内にて國、郡、郷、邑、村など地方制度と同様の區分に用ゐられてゐるやうであるが、夫が果たして適當であらうか。抑院の制は第五十代桓武天皇の御代に始められたもので、延暦十年の條に『二月癸卯諸國倉庫不可相接一倉失火合院燒蓋於是勅自今以後新造倉庫各相去十丈巳上随處寛狭量宜置之』と其の後諸國に依つて動かすことなく漸次に神院に遷すべしと。後更らに命を下して近接したる郷は其の中央に一院を置くべしと定められた。此等が院の沿革である。

 此の倉院は國税たる祖米を収納する倉庫のことで、周圍に垣を繞らすので倉院といふのである。この倉院の事務を掌る者が郡司で郡司の政務を行ふ役所を郡家とも郡院ともいふのである。この役所を郡院と呼ぶことから、誤解したものか郡と院とは共に郷を統轄する地方制度であるといふ學者もある。曰く川内新田宮の藏書に諸郡檢田使入幣に等差がつけてあるが、夫に依れば大郡は五十疋、中郡は三十疋、院は二十疋、郷は五疋とあるから、院は郡と同等である。又薩摩圖田帳に給黎院を管掌するは郡司兼保、知覧院を掌るは郡司忠益、牛屎院を掌るは院司元光と記されてゐるから郡司も院司も同等であると。然るに入來院文書中に内裏の大番仰付けられ参勤すべき薩摩の人々の名を記してあるものには院司なるものは一人もない。伊集院は伊集院郡司、滿家院も滿家郡司、市來院も市來郡司、山門院も莫禰院も知覧院も給黎院も皆郡司と記されてゐる。又前記の牛屎院の院司とあるものも文永二年の文書には牛屎郡司と記されてゐるから前に擧げられた院司といふのは誤記ではないだらうか。

入來文書

内裏大番事任被仰下旨可令参勤人々

川邉平二郎 別府五郎 鹿兒島郡司
頴娃平太 伊作平四郎 薩摩太郎
知覧郡司 益山太郎 高城郡司
在國司 牟木太郎 江田四郎
莫禰郡司 山門郡司 給黎郡司
指宿五郎 南郷萬揚房 小野太郎
市來郡司 滿家郡司 宮里八郎
萩三郎 伊集院郡司 和泉太郎

建久八年の圖田帳に

日置郡七十丁 本郡司 小藤太貞隆
日置庄三十丁 下司 小野太郎家綱