肘枕。御慶の声に夢やぶれて、珍らしや誰れと問へば、平常は疎とき問屋の何某、末広に祝詞を籠めて、長々と去年の不沙汰の詫、これよりの懇信、一向たのみて行きしこと、お蝶その通り取次げば、「はてさて、利欲にくらみし眼は、何処まで闇らきか方図のなき物。その詞我れへではなし、ご本尊は彼方に」とて、指さすは座敷の花瓶、これ高くなりし評判に、出来上がらぬ内より我れ買ひ取らん、いや是非とも私しにとせり合ひの申込、一々に跳ねつけて、今歳コロンブス博覧会に出品の計画、諸事は辰雄の周旋に、優然構へる小気味よさ、籟三いよ〳〵大言を吐きけり。
暮れてその日も点燈ごろ、辰雄廻礼の車をそのまゝ、交際ひろき身の労れも厭はず、門に梶棒おろさすれば、春色いとゞ長閑になりて、いふ事きく事一々におもしろく、籟三紙鳶の昔しを言へば、辰雄廻し独楽の面白さ忘れずと語り、彼れに移り是れに移り、次第々々に蜜になりて、
「幾変遷の今の身、中々にそのかみの無心恋しきばかり。世のこと人のこと目に移りて、彼れも助けたく是れも救ひたく、不想応の事業に身を委ねて、及ばぬ力の我ながら口惜しく、暗涙を呑むこと誰が業ならねば、訴ふるに処もあらず。凝りにこりし憂鬱の気の晴るゝは、此処にかく遊ぶ時ばかり」
と、何故か例に似ぬ詞、籟三聞き咎めて、
「怪しき事かな。君が博愛の徳、上に聞え下に渡つて、推尊せぬ人なき筈を、何故の御不満ぞ」
と問へば、
「何事も言はぬが花なり。お互に聞きつ聞かせつ、楽しき事ならばよけれど、我が胸にさへ持切れぬ苦を、君達に分けてなる事か。元来正は邪に押され、直は曲に勝ちがたきが常、何事も問ひ給ふな、脳いよ〳〵乱るゝ様なり」
と、振あふぐ面気の処為にや、血の気も見えず青く白く、唇を噛んで沈思の体。お蝶たまらず兄の袂そと曳けば、籟三少し前に進みて、
「よき事のみを聞き聞かせの友いくらもあり、憂喜ともにと言ふ処真実の価値ならずや。これを蔵くされて喜こぶ者、世の中にはあるか知らねど、我等同胞おもしろくなし、とは不遜の詞なれど、兄弟と思ふ君の事、水火の中にも手を携へたきが願ひ、何と打明かしては下さらぬか。承らねば気も落付かず、我よりはお蝶、どの位心ぼそきか。女は気の狭きもの、役にも立たずくし〳〵と気にして、我れも迷惑、可愛さうにもあり、五足十足の同じくは、諸ともに苦を分けたし」
と腹からの詞、お蝶もの言はず打しほれて、組み合はす手を解きつ返しつ、哀や胸の動悸高かり。
辰雄俄かに心付きてや、
「さても馬鹿な事いひ出して、折角の面白さ台なしになりぬ。苦あれば楽あり、楽あればこそ苦もあるなれ。順環して行く処奇な物なるを、一々に憂れはしと見る日には、五十年の寿命たまる事か。お蝶さま案じ給ふな、今いひしは皆酔の上の譫言、泣上戸の言分、何でもなし何でもなし。笑ひ顔みせて我れにも落つかせ給へ」