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癩文学といふこと

多磨全生園 北條民雄


 昨日MTLで「療養所文芸の発展策その他」について書いた諸氏のものを拝見し、また原田嘉悦氏の雑記をも読んでみた。

 原田氏は僕の言葉を引用してゐるのだが、まあそのやうなことはどうでも良いことであるのかも知れない。しかしあれは「自殺志願者」に贈るために書かれたもので、おまけに僕も引つぱり出されたのであつて見れば、僕もまたあの文章を頂戴すべき一人なのであるかも知れない。もつとも、僕は頂戴はするけれども、ただ頂戴するだけだ。といふのは、ああいふ言葉といふものは仲々立派すぎて、僕みたやうな毛の生えた虱にはなんだか服膺出来さうにもないやうな気がするのだ。僕などが服膺したら、多分、腹下しをするに違いない。で、まあ僕は、おつき合ひに一つだけ微笑をしてから、そのまま原田氏にお返しして置いた方が良ささうだ。

 皮肉を云ふな、と誰かが云ひさうな気がするが、僕は本当のところ正直に云つてゐるのだ。正直といふものが、なんとなく皮肉に聴えるとは、なんと困つた時代にわれわれは生れ合せたものではないか。

 単純、といふことが尊ばれるのは、ひよつとしたらそれが滑稽なためかも知れない。だつて単純澄明な主張といふものは、なんとなくユーモラスな美しさを持つてゐるではないか。複雑な滑稽さといふものは毛の生えた虱のやうにいやらしい。

 ドストエフスキーは作中人物に自殺をさせるのが実に名人だ。われわれは文豪達が作中人物に自殺させる光景を数多く見せられた。有名なところではフロオベルの「マダム・ボバリイ」、トルストイの「アンナ・カレニナ」、ドストエフスキーでは特に「キリーロフ」をあげることが出来る。また「カラマゾフ」のスメルヂヤコーフもいい。

 しかしなんといつても素晴らしいのは「キリーロフ」の自殺で、これはとうてい原作を読まぬ人には伝へ難い (三笠版ド全集第十一巻383-410頁)。訳者は原久一郎氏だ。自殺に就いて何か語る人は先づこれを一読してからにして貰ひたい。いや、それよりも私は「作家の日記」のうちの或章を読んで貰ひたいと思ふ。ドストエフスキーはある少女の自殺を考察した後、「知識階級の中に次第に増大して行く疫病的自己絶滅は、不屈不撓の観察と研究に価する余りに真剣な事柄である」と述べて、決して結論めいた言葉を挟まなかつた。即ち作品の人物達の自殺でそれを結論したのか? キリロフを始めスタヴロギン、スメ ルヂヤコーフ、クラフト、スビドリガイロフ、等々の自殺で――。


 遺書といふものはたいてい決まつて下らないものだ。といふよりも、遺書といふものはそれを書かうとするとどうしても下らなくならざるを得ないのだ。何故かといふと、人間といふものは死を覚悟するともうそれからは自分の心理について思ひ違ひばかりしたがる奇妙な傾向を持つてゐるからだ。もつとも、 われわれは偽りなく自己を眺めた芥川龍之介氏の遺書を持つてゐるけれども、しかしあれは芥川氏が作家であつたからで、近代の作家ほど自分の心理を眺める練習を積んでゐるものはないのだ。とはいへ芥川氏に於てさへも、自分の死の理由については、果して正当に批判し語り得たかどうか? つまり自己を思ひ違へるだけではなく、もつと大きな何かがあるのではないか。人間は自分の今の心理に就いてはかなりよく判るものだが、過去をも含めた今の自己といふものは、なかなか判り難いものだ。そして更に判り難いのは自分の位置だ。「ああ俺は今一体どこにゐるのだらう?」といふなげきは、楽しげな失恋者の感想だけではないのだ。これはもう時間といふ武器を持つた孫たちにゆづるべきものらしい。

 「作家の日記」の中でドストエフスキーはまたもう一つ、十二歳の少年の縊死について書いてゐる (一八七七年一月)。その少年は教師の命令に服さなかつたので、その罰に午後五時まで学校に残らされたのだ。ところがその日少年は楽しい命名日に当つてゐて、家では家族がもう用意をしてゐたのだ。少年は命名日を祝ひ楽しむことも出来ず学校に一人残されたといふ訳だ。そこで悲しみの余り首を縊つてしまつたらしいのだが、 ドストエフスキーはこのことを語るうち或個所で特に括弧をして「現代の子供等の中、誰一人これを (自殺を) 知らないものがあらう」といつてゐる。横光利一氏は括弧といふものは作家の心理の一番よく出るところだと云つてゐるが、この場合に於てもドストエフスキーの云ひたかつたことは第一番にこの短い括弧の中の言葉と思はれる。


 右のことは勿論帝政時代のロシヤでの話であるが、しかし一九三〇年代の現代の日本に、これと同様な事件はないか? 僕は十三四の少年少女の自殺をもう幾つも新聞で見た。それから何の理由もなく (これは外見上のことだ) ビルヂングの上から飛び下りたり、単に会社を馘首されたといふ簡単な理由で鉄道に飛び込んだりした二十前の少女のことをも知つてゐる。重要なことは自殺の直接の動機ではないのだ。直接の動機などたいてい遺書と同じやうに愚劣でばかばかしい。即ちそのやうな愚劣でばかばかしいことが、何故に自己を滅すといふやうな、少くママとも彼個人にとつては大事件であるところの自殺に至らし