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しまふと、重苦しい静けさが一層人々の身にこたへるかのやうであつた。

「ああ、ああ、今日もこれで暮れたんだなあ。」

 と向う端の男が呟きながら床の中から腕を伸ばして、脹らんだ蒲団をとんとんと叩いて押へつけた。

「ほんとにねえ……何時までこんなくらしがつづくんだらうねえ……。」

 それに応ずるともなく一人の女が此の世の人とも思はれぬかすれた声を出して起き上つた。彼女はそろそろと手探りで寝台をおりると、便所へ行くのであらう、あさくさ紙を口にくはへて寝台と寝台との間を探り歩き始めた。頭から顔、頸、手足へかけてすつかり繃帯につつまれてゐた。眼も鼻も勿論繃帯の中になつてゐる。外部から見えるのはただれくづれかかつた唇だけであつた。その姿はまだ仕上らぬ人形の型であつた。顔もなければ指もなく、また人間らしい頭髪もない。ただ頭らしいもの、二本の腕らしいもの、二本の足らしいものがやうやく象どられてゐる白い模型が、薄暗い電燈の下を怪しげにゆらゆらとうごいて行くさまである。慣れてゐる私も長く見るに堪へなかつた。

 矢内の呼吸が速くなつた。私はじんと全身の毛立つのを覚えた。死ぬんぢやないか、といふ不安が頭をかすめた。

「矢内!」

 と私は思はず高い声を出した。彼はものうく眼を開いて私を見る。私はほつと息を抜きながら、

「苦しくなつた?」

 と低い声で訊いた。

「くるしい――。」

 と彼は力の無い声である。殆ど聴きとれぬほど低い声であつた。私はそつと彼の額に手を置いて見た。しかし熱はなかつた。

「みみ、のなかで、なんだか、あばれて、あばれて、ゐる。」

「ええ?」

 と私は聴きとれないで訊きかへしたが、すぐうんと頷いて解つたやうな表情をして見せてやつた。一言を出すに彼がどんな努力をしてゐるかが察せられて、私は訊きかへしたりした自分が無慈悲なものに思へたのである。が、私はすぐその言葉の聴えた部分をつぎ合すことが出来た。彼は以前にも耳の中で何かがあばれてゐるやうに耳鳴りがすると言つたことがあつた。それから眼がかすんでならないとも言つた。その時私がそれを医者に訴へると、まあ判り易く言へば全身結核、といつたやうな状態なのだと教へてくれたのであつたが、それから推して考へると彼は眼も耳も破壊されつつあるのであらう。不安が私の心の中に拡がつて来る。私は坂下に医者を呼ぶやうに頼んだ。坂下はさつきから心配さうに私らの方を眺めてゐたが、急いで廊下伝ひに医局へ駈け出して行つた。死んぢやいけない、生きてくれ、どんなことがあつても生きてくれ、と私は心の中で呟き続けた。坂下の足音が廊下の果に消えてしまふと、室内の静けさが身にしみ、矢内の出す呼吸の音がかすかに耳に這入つて来た。

 間もなく医者が来、診察が終ると、彼は私を寝台の陰に呼んで言つた。

「まだ一日二日は大丈夫と思ひますが、危険はありますから気をつけて下さい。」

 そして変つたことがあればすぐ呼ぶようにとつけ加へて矢内の腕へカンフルをして出て行つた。医者の姿が硝子戸の向うに消えてしまふと、私は取りつく島を失つた思ひがし、もはや頼り得るものが何ひとつとして無いことを深く感じた。窓外に咆哮する雪嵐はあくまで、生ようとする人間に対して敵意に満ちてゐるやうに思はれ、私は人間といふものの孤独さ、頼りなさが骨までもしみ入るのであつた。私はあらためて室内を眺めまはした。繃帯に埋まれたこの人達は果して生きてゐるのであらうか、もし精神と肉体を備へたものが人間であるなら、これは人間とは言へぬであらう、それなら一体何だといふのか、恐らくは人間といふ外貌を失つた生命であらう、これはもう動物ですらあり得ないのではないか、人間としての可能の一切を失つて最後の一線に残された命とはこれであらう。だが、私はこの時はつきりと知つた。生命に対する自然の敵意を。私は病室の一歩外に荒れ狂ひ、喚き咆哮する自然の盲目な力を見た。自然は絶間なく人間を滅ぼさうと試みてゐるのだ。生命とは自然の力と戦ふ一つの意志なのだ。その時、矢内の唇がもぐもぐと動いてゐるのに気づいて急いで耳を近づけた。

「うまれ、ない、かなあ、まだ、生れないかなあ……。」

 咽喉のどの奥からしぼり出すやうな声であつた。私は、はつと胸のしまる思ひがし、

「生れるよ。きつと生れるよ。」

 何が私にさういふ確信を与へたのか、私は夢中になつて、しかし断乎と言ひ切ることがこの時出来た。一瞬、矢内の眼が異様に輝いてじつと私の眼に釘づけされた。