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中にあつて、一日も意力の崩れることのなかつた彼――私にはさう見えたのである――は、私に何者にも勝つて生きる意義を教へてくれた。

 ある日のことであつた。それは今から二ケ月ばかり前であつた。私は殆ど毎日彼の病室を見舞つてゐたが、その時ちよつとした用件のため四五日訪ねることが出来なかつたのであつたが、その日這入つて行くと、彼はいきなり、

「つくづく生きなければならないと思ふよ。」

 と、堅い決意を眉宇に示して言ふのである。何時ものやうにおつとりとした調子ではあつたが、私はその底に潜んでゐるおしつけるやうな力を見逃すことが出来なかつた。

「うん、生きなければいけないよ。だから早く元気になつて呉れ、早くね。」

 彼は不快なものをふと顔に表はした。だから早く元気になつてくれ、と言つた私の言葉の日常的な卑俗さが気に触つたのであらう。が、間もなく彼らしく顔を柔げ、

「昨夜、二人死んだのだよ。一人はこの病室、も一人は、×号の人。」

 人が死ぬとこの病院では、その病室の前で鐘を叩いて、病舎に住んでゐる死人の知人を集める習はしがある。その鐘の音を昨夜、二度も聴かされて、彼はしみじみと考へたといふのであつた。

「そしてね、僕はもつと真剣に病気と戦はなくちやいけないと思つたのだ。今まで僕は、心から戦はうとはしなかつたんだよ。僕は戦ふよ。」

 産室の妊婦が来たのはその翌日だつた。この妊婦は彼の心に異常な衝動を与へたと見え、彼は珍しくその日一日興奮の色を浮べながら、寝台の上に幾度も起き上らうとするのであつた。

「死ぬ人もあるけれど、生れる者もあるんだね。僕は今まで、人間が生れるといふことを知らなかつた。忘れてゐた。僕は今まで、既に生れてゐる者だけしか頭になかつたんだ。」

 と、彼は熱のこもつた声で言つた。

「うん。僕もさうだつたよ。いや、僕は僕だけしか、今まで見えなかつた。君にあの手紙を貰ふまではね。」

「よかつたよ。君にもみんなが見えるやうになつたんだから。そのうへに、生れて来るんだよ。次々に生れて来るんだよ。僕は初めて歴史を知つたんだよ。」

 彼の肉の落ちた頰には喜悦が昇つてゐた。が、それを見た刹那、私は、彼が意識しないにせよ既に死を感じてゐることをはつきりと知つた。

 彼はその後もたびたび子供のことを語つた。そして語る度に彼の顔に和やかな光りがただよふのであつた。それは体内にかがまつてゐる胎児をまのあたり見ながら、その成長を楽しむ父親のやうな様子があつた。だが、自分の病勢が進むにつれて焦り気味になり、ふと不安な影が顔を包むやうになつた。早く生れないかなあ、と言ふ彼の声には、どこか絶望のひびきが感取されるのであつた。

「おお、さむ。ひでえ雪になりやがつたなあ。」

 矢内の寝台の向ひ側の男が、起き上つて急いで襟を合せながらさう言つて便所へ立つて行つた。

「ほんとだ、ひどい雪になつたのね。」

 とその横の女が寝台に坐つて大きな欠伸をした。それが動機になつて方々で声がしだした。

「やあ、もう五六寸はつもつたぜ。」

 と片足の少年が叫んだ。少年は松葉杖をこつとんこつとんとつきながら窓際に立つて行つた。

 矢内は仰向けに寝たまま、じつと窓外を眺めてゐる。雪の少ないここでは珍しい大雪であつた。彼は自分の生れた土地を思ひ出してゐるのであらうか、私はふとあたりに北国の気配を感じるのであつた。

「おうい諸君、お茶にしようか。」

 と当直の坂下が詰所から出て来て叫んだ。室内は急にざわめき始めた。けんどんの戸をがたがたとあける音や、湯吞の触れ合ふ音などが入り混つて聴えた。

「何か食べたくない?」

 と私は矢内に訊いた。彼は首をちよつと左右に揺つた。なんにも食べたくはないのである。


 夜になつた。私は矢内の横の寝台を空けて貰つてそこに宿ることにした。吹雪はますます激しさを加へて窓外に唸り続けてゐる。ごうごうと林の音が聴える。どこか遠くで巨大な怪物が断末魔のうめきを呻いてゐるやうである。窓にはすべてカーテンが広げられ、室内は無気味な沈黙が続けられてゐた。私はやがて襲ひかかつて来る不幸の前に立つて、それを待つともなく待つてゐるかのやうな不安が病室全体を満たしてゐるやうに思はれてならなかつた。雪のため各病舎からの見舞ひも殆どなかつた。それでも宵のうちは入口の硝子戸が二三度明けたり締めたりされたが、間もなくその数少い見舞客も帰つて