Page:HōjōTamio-Diary-Kōsei-sha-2003.djvu/37

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動
このページは校正済みです


くなつて、ぐたぐたに疲れ果てて眠つた。

 それで今日は頭がぼんやりと重たい。その頭でジイドの「背徳者」を読み始めてみると、――私は朗かな蒼天の上にあつて云々――の蒼天といふ言葉がぴんと激しく頭に映つて眼先が蒼くなり、もうそれ以上読み進めることが出来ない。

 九時になつたので、蒼天蒼天、と呟きながら眼科へ洗眼に出かけた。M――が「地の糧」を読みながら自分の番の来るのを待つてゐる。おい、と肩を叩いたが、彼が振りむくと後悔した。今日は誰とも口をききたくないからだ。口を開いて、言葉を出して、それがひどく面倒くさくて、それでもお愛想にその本の表紙をちよつと見てあくびを一つして横を向いた。看護婦のNとKとが相変らず洗眼のスポイトを手にしてゐるが、これはもうお愛想にも物を言ひたくない。むつつりと黙り込んだまま洗つて貰ふ。

「ひどいわね。充血が――。」

 と彼女は言ふ。さうだらう、昨夜は二時まで眠れなかつた。その前の夜も、その前の夜も、ずつと二時三時まで眠れない日が続いてゐるのだ。こんなことならあつさり発狂してしまつた方が余程ましかも知れない。

 帰つて来て机の前にぽかんと坐つてゐるとMが来て、

「菓子を食ひに来い。」

 と言ふ。余り食ひたくもなかつたが出かけて行く。体がだるくて、肩がこつて、物が言ひたくないのでごろりと寝転んでゐると、彼は自作の短歌を読み出した。聴きたくもないが自然と耳に這入るから仕方がない。明るい歌が多いので興味が湧かない。こんな日は明るいものを読んだり聴いたりしてゐると腹が立つ。

 昼食を食つてから十号へ行く。東條は例のやうに大の字に寝転んでゐる。廊下の向うの端には孕んだ狂人が〔ゆかいた〕の上にぢかに坐つてゐる。おまけにそこは便所の入口と来てゐるからたまらない。

 東條の部屋には何時ものやうにE老人と癩生活六十一年氏が並んで寝てゐる。

「おい、今日は肩がこつてどうにも困つてゐるんだ。ひとつ叩いてくれんか。」

「ぬかせ、この野郎。俺は左の眼がもう見えなくなりさうなんだぞ。」

 これが東條と私との挨拶である。成程さう言はれて見ると彼の眼は真赤に充血してゐる。

「どうした、首は?」

と彼が訊く。

「うん。首か。まだ〔くく〕らんと置いてあるさ。」

 と私は答へる。

「はははは。縊る縊るつて言ひながら、結局縊れんのだなあ。あきらめろ、あきらめろ。」

 さう言はれると、何時もなら、縊つてみせると息まいてみるのだが、今日はそんな元気もない。

「ああ。だから俺、今度は〔めくら〕小説を書いてみようと思つてるよ。つまり、『何時でも死ねる』つて安心してゐたのが、いざ盲目になつてみるとまだ死ねなかつた、何時でも死ねるなんてのは嘘だつて小説をな。そして、意志だ、意力だ、思想だなんて言つても、せんじつめると、最後のどん底に来るとみな〔やすめつき〕に過ぎない、生きる力はあきらめより他にはない、つてこのことを書きたいんだよ。こんな考へは俺今まで持つたことないし、こんなのは癪にさはるんだが、どうやら〔ほんと〕らしいんだ。」

「さうだよ。ほんとだよそれが。」

「しかし、果してあきらめ切れるか、これだよ次の問題は。」

「あきらめ切れなくても、あきらめさせられちやふよ。初めのうちはばたばた藻搔くけれど、そのうちに疲れて、力がなくなつて、ぐつたりしちまつて、どうしやうもないんだ。」

「ばつたんにかかつた猫みたいなもんだなあ。初めはもつこもつこと板を持ち上げてみたりするが、しまひにはぐたつとなつちまつて、ぺしやんこになつちまふ。」

「しかし、盲目小説は今書くの止せよ。」

「どうして!」

「君が盲目になつてから、体験を積んでから書いた方がいいよ。」

「まるで俺が盲目になるのが確実で、寸分間違ひないみたいだなあ。」

「間違ひなく盲目になるさ。定つてるからなあ。」

「しかしその前に死んでみろ、困るぢやないか。」

「ははは、困るもんか、めでたいことだよ。」

「そりやさうだなあ。」

「俺、今日眼科でしみじみ君を見たよ。」

「どうしみじみだい。」

「この男が北條で、今洗眼に来てゐる。この男もいつかは盲目になる。その時は俺も盲目になつてゐる。盲目同志でお互に話し合つてゐる姿が浮んで来てなあ。さうすると、しみじみ、北條も俺も癩だつたなあ、つて思ふん