ばならぬと思ふ。
二週間の無茶苦茶な生活がたたつて、心身共に疲れ切つてゐる。休養しなければならない。
朝、光岡君が遊びに来る。彼は来月に這入ると休暇を貰つて東京へ行くとのこと。その節草津へも行つてよくあちらの様子を見て来るといふ。
花岡君の部屋で光岡君の手紙を読んだ時の気持が蘇つて来る。自分を救つて呉れたものは、実際彼の温かい友情と川端先生の愛とであつた。あの部屋で先生の手紙を読み、続いて彼の手紙を読んだ時の嬉しさは、たうてい言葉には表はせない。光岡君よ、兄に深く感謝する。
和辻博士の『続日本精神史研究』を少し読む。これから日本精神を大いに研究しなければならない。
昼食後光岡君の部屋へ遊びに行く。彼はこの病院へ這入る前の日記を読んで聴かせた。学生時代の彼の若々しい息吹きがそこにはあつた。
帰つてから、トルストイの『幼年時代』を読み始める。頭が疲れてゐるので非常な努力をして読むのだが、頭にぴつたりと這入つて来ない。夕食後また少し読む。
六月二十七日。曇。驟雨あり。
午前中は頭が爽快で、『プラトンの生涯』を読む。午後、頭重く、強ひて読書しようとしても駄目であつた。アンドレ・シュアレスの『ドストエフスキー研究』を拾ひ読む。ペンを執る気はしない。非常に書きたいのだが、頭がまとまらない。
光岡君来り、散歩。永代神社の横で一休みする。
夕食にはしるこを食ふ。妙義舎の連中と一緒である。食後、草津の話などする。
夜、東條と将棋を二番さす。彼は弱い。
なんとなく気分が重く、憂鬱である。これではならないと思ふが、どうしやうもない。愛人が欲しいと思ふ。だが結婚する気にはどうしてもならない。精系手術のことを考へるとたまらない。
夜の八時、これを書きながら幾分感傷的である。
制作にかかれるほどの平静な気持が欲しい。立派なものが書きたい。
「ただひとつのものを」
「続ただひとつのものを」
「青春の天刑病者」
「大阪の一夜」
これだけは一時も早く書き上げねばならない。その他にも「思ひ出」は是非とも書かねばならない。気分を落着けて一日も早く筆を執らねばならない。
もつと意志的になること。自分を高く見て下さる人々、殊に川端先生の期待に対して裏切つてはならない。もつと懸命になれ。今の自分に一番欠けてゐるものは制作に対する熱意である。この灰色に澱んだ世界で自己の個性を守るには余程の熱情と意力がなくてはならない。
凡てに対し、情熱的たること。
情熱をもつて個我を守れ。
六月二十八日。終日雨。
朝寝をしたので頭は爽快であつた。頭の爽快さを保つためには、どうしても朝寝をする必要がある。夜早く眠ることは自分にとつて不可能であるのみでなく、床に這入つてからの幾時間かこそ自分の作品の形づくられる時であつて、夜更しは非常な大切な時間である。今までは思ふやうに朝寝が出来なかつたため、睡眠不足は毎日で、これがどんなに頭を悪くしたか判らない。出来るだけ眠らねばならない。
本年度下半期の予定表を作製して机の前に貼りつけた。
夕食後、S君と二人で十号病室へ風呂に行く。浴後Yさんと碁を一番、僕の勝。この人とやると負けたことがない。石は僕が白で相対である。しかし向うが二目がた弱い。けれど彼はもう四十近い年だからなかなか置石をしようとは言はない。負惜しみも相等強いやうだ。東條がA・Gの所から本箱を貰つて来て盛んに本を並ベ出した。半分くらゐは僕が呉れてやつた本であるが、しかし彼は楽しさうに本を並べてゐる。じつと見てゐるうちに僕はなんとなく涙ぐましいほど彼が気の毒にもいとほしく思はれた。勿論、これといつて値のある本は一冊もない。それでも彼は、右に置いて見たり左に立てて見たりしながら、なるべく立派に見えるやうに骨折つてゐる。彼にはかうしたこと以外になんにも喜びがないのだ。あの狂病棟の一室で、毎日々々狂人達と共に暮しながら、その部屋を自分の部屋と定め、粗末な机と貧弱な小さな本箱を眺めては、豊かな喜びを味つて詩を書いてゐる彼。僕は今日ほど彼に友情を覚えたことはない。彼に本をやつたことをこの上なく嬉しく思つた。
今は九時十五分前。消灯までに一時間と十五分しかない。まだ雨が降つてゐる。いくらでも降つてくれ。さあ明日からは制作にかかるぞ!