Page:HōjōTamio-Diary-Kōsei-sha-2003.djvu/14

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もの夢を分析して成功した経験をつてゐる。

だが、ああ、僕はこの夢をどんなに書いて分析の跡を君に示したらよいだらう。何故つて、僕はもうすつかりあの夢の内容を忘れてしまつたのだもの。が、この忘れたといふことに重大な意義があるのだ。だが、安心して呉れ、忘れたのはもう既に心の中で分析してしまつてから後のことだつたから、あの夢の意義だけは書ける。ひとつびとつ、夢と対照して書くことは出来ぬが。

 兎に角あの夢は、君がひどく不幸になつてゐた筈だ。死んだか、ひどく病気が重くなつてゐた筈だ。が、看護婦が、どうしてこんな夢を見たのだらう。それは、彼女が、君に対して好意を感じてゐるが故なんだ。これはもうはつきりしてゐる。が君は僕に向つて言ふだらう。

「君はさつき、夢は欲望の表現であると言つたではないか。若し好意を感じてゐるならば、病気が良くなつた夢か、或は少くとも軽くなつた夢を見なければならない。それだのに、この夢は不幸になつてゐる。好意を持つてゐる男が不幸になることを誰が欲望するだらう。」と。が、僕はこの言葉に少しも驚かない。まあ急がないで僕の次の言葉を聞き給へ。

 彼女は君に好意を感じてゐる。だが君は癞だ。これがこの夢を歪めた原因だ。これはいふまでもなく彼女の心の中に深い葛藤を沈めてゐる証明だ。この葛藤とは、好意の反面に、思ひ切つてしまはなければならぬといふ (病気のことや彼女の家庭の事情やその他種々の理由はあらう) 無意識の欲望があつたのだ。そのために君を不幸にした。君がもつと不幸な者になつてしまへば、恐らくは彼女は思ひ切ることが出来るだらうと思ふ無意識があつたのだ。君には好意を有つてゐる。が思ひ切らねばならぬ。これがこの夢の有つ意義だ。


 次に僕の心理の分析だ。初めに◎の印しを附してある所まで書いて来て、僕はもう何時の間にか夢の内容を忘れてしまつたことに気がついたのだ。何故忘れたのだらう。それは無意識の中に書くことを嫌悪してゐたのだ。何故嫌悪したか? 彼女が君に好意を感じてゐる故だ。それだけの理由で何故嫌悪したか。僕は無意識の中に嫉妬心があつたのだ。それなら彼女に僕が好意を有つてゐるのか。否、理由は、◎印の次の項であんなにもこの心理に恐れてゐるからだ。何故それが好意を有たぬ証明となるか。もし好意を有つてゐるとすれば、あんなに恐しさを感じないで、怒りを覚える筈だ。あの恐怖の理由が、感情的なもののためではなく、寧ろ理性的に、心理の糸の精密さと、無意識の間に自分は何を考へてゐるか解らないといふ不安定な恐怖だ。


 五月十三日。

 東條の作品が廻つて来た。「準子」九十ニ枚の力作である。何時もながら彼の精力に驚かされる。この作は準子といふ看護婦が人公であり、副主人公が以前にマルキストであつた赤木といふ男で、癞者である。要点は準子がマルキストの赤木に恋するが、赤木が癩であるといふことの準子の苦悶と、赤木が既に輸精管を切断してゐることによつて、赤木に対して肉慾的な欲望を満足しようとする、要するに準子の性的苦悶の小説である。作者としてはもつとより以上のものを書きたかつたのかも知れぬが、それだけしか書かれてゐないやうな気がする。これといつて高い世界観や人生観なども示されてゐない。全体に言つて未だ技未熟で文学意識が低いやうに思はれるのは僕だけだらうか。そのために全体に凝結された芸術的美がない。これが作全体を低調にしてゐるのではあるまいか。秩序がない。具体性がないといふことだ。もつと一つ一つのエピソードやカットに意を用ひて欲しい。例へば堂本の描写にしても、あのやうに書かないで、一つのエピソードを持ち出して、その中で堂本の動作の一つ一つをしつかり描いた方が、より効果的なのではあるまいか。なほ堂本の描写に、「たいていテンゴーばかり言つてゐるのである。」といふやうな一節があつたが、このテンゴーなどいふ言葉をこのやうな場合に使ふことは、非常に効果的に見えて、その実非常に危険な、反対の結果を生み出すものである。何故ならかうした言葉は、一見非常に具体的に見えながら、その実、実に曖昧な抽象的な言葉なのである。読者はこの言葉から堂本に於ける何ものも受取ることが出来ないのである。

 準子はかなり描かれてゐてうれしかつたが、しかしまだ僕には不満がある。赤木がマルクママシズムを信奉してをり、この赤木の思想が準子を惹きつけるに役立つてゐることは疑へないし、この思想が準子の心の中に大きな波紋を投げ与へてゐることは解るとしても、準子自身のマルクシズムに対する態度は何処にも書かれてゐなかつた。三十三頁参照。これは必然的に準子の内部に、クリスチャンとしての彼女と、マルクシズムを考へる彼女との心の対立がなければなるまい。準子の欲情の苦悶を描くに汲々とした作者の、大きな失敗と言はねばならぬ。