カル公、紋公、桂公、信太郎などと名前が書きつけてあつた。
一通り収穫が終つた頃、急に地上が暗くなり始めた。気がついて空を見上げると、西北の空からもくもくと湧きあがつた黒雲が、雷鳴を轟かせながら中天さしてかなりの速度で這ひ上つてゐるのであつた。と、はや大粒の雨滴が野菜の葉をぱちぱちと鳴らせ始めた。
鶏三は子供たちに収穫物を持たせて一足先に帰すと、大急ぎで彼等の荒した跡を見て廻つた。そして採り残されてあるトマトのよく熟したのを二つ三つもぐと、目笊に入れて帰らうと遠くに眼をやつた時、雑木林の中から突然太市が現はれて来たのであつた。猟犬に追はれる兎のやうに林の中から飛び出して来ると、まつしぐらに畠の中を駆けて行くのである。体の小さな彼の下半身は茄子やトマトの葉の下に隠れて、ただ頭だけがボールのやうに広い菜園のただ中を一直線に飛んでゐるのだつた。好奇心にかられて鶏三は立停つて眺めた。とたんに暗雲を真二つに引裂いて鋭い電光が地上を蒼白に浮き上らせると、岩の崩れるやうな轟音が響きわたつて、草や木の葉がぶるぶると震へた。脱兎のやうに飛んでゐた太市が、その時ばつたり倒れて見えなくなつた。鶏三は思はずあつと口走つて足を踏み出した。
紐のやうな太い雨がざざざと土砂を洗つて降り注いだ。稲妻は間断なく暗がつた地上を照らし、雷鳴は遠く尾を引いて響いて行つては、また突然頭上で炸裂する火花と共に耳朶を打つた。鶏三は片手に笊をしつかりと抱き、片手ではともすれば浮き上りさうになる麦藁帽子を押へて、太市の倒れた地点に視線を注いで駈け出した。と、太市は、倒れたまま地面を這ひ出したのか、不意に二十間も離れた馬鈴薯畑に首を出すと、また一散に走り出して、果樹園の番小屋に飛び込んで行つた。
鶏三も駈足で番小屋まで走り着くと、先づ内部を窺つてみた。中は殆ど真暗であつた。西側に明り取りの小さな窓があつて、断続する蒼い光線が射し込む度に小屋の中は瞬間明るくなつた。荒い壁はところどころ剝げ落ちて内部の組み合はさつた竹が覗いてゐ、部屋の真中には湯吞やアルミニユムの急須、ブリキの茶筒などが散乱して、稲妻が光る度にそれらの片側が異様な光りを噴き出した。
番人は誰もゐなかつた。鶏三は眸を凝して稲妻の光る度に太市の姿をさがした。どこにも少年の姿が見当らないのである。
鶏三は思はず笑ひ出した。見当らないはずであつた、太市は部屋の隅つこで向うむきになつて蹲り、首と胴体とを押入れの中に懸命に押し込んでゐるのであつた。ぼろ布か何かが押入の中からはみ出してゐるのに似てゐる。鶏三は、
「太市、太市。」
と呼びながら上つて行つたが、それくらゐの声では太市はなかなか気がつきさうにもなかつた。雷鳴が轟く度に太市は、輪なりにした尻をびくんと顫はせ、押入の中で、
「うおッ、うおッ。」
と奇怪な呻声を発してゐるのであつた。
「どうした、太市。」
驚かせてはならぬと思ひながら、しかし思ひ切つて大声で呼ぶと、小山の下で呼んだ時と同じやうに激しく太市は仰天して飛び上つたが、押入の上段にごつんと頭をぶちつけて、
「いた!」
と悲鳴を発した。刹那ひときは鋭い稲光りが秋水のやうに窓から斬り込んで来て、太市は、
「うわッ。」
と押入の中に首を押し込んだ。冷たいものでひやりと顔を撫でられたやうな無気味さに、鶏三も身を竦めて腰をおろすと、雷の鳴るうちは駄目だとあきらめて、入口の土砂降りを眺めた。
雨は殆ど二時間近くも降り続けた。時々雨足が緩んだかと思ふと、また新しい黒雲が折り重なつて流れて来ては降り募つた。うち続いた菜園は仄明るくなるかと思ふとすぐまた暗がり、その間を電光が駈け巡つた。
やがて雨足が少しづつ静まるとともに、雷鳴が次第に遠方へ消えて行くと、洗はれた地上にははや月光が澄みわたつてゐるのだつた。
「なんだ、月か。」
鶏三は馬鹿にされたやうにさう呟いてみたが、その時彼の横をこつそり逃げ出して行かうとする太市に気づいて、彼はやんわりと少年の胴を抱きあげると、自分の前に坐らせた。雷に極度に脅かされたためか、太市は放心したやうな表情でぼんやりと鶏三を見上げてゐる。鶏三は立上つて蜘蛛の巣だらけになつた電燈のスヰッチをひねると、
「恐かつたらう、太市。」
しかし太市はもうむずむずと逃げ出しさうにして返事