子は佐太郎の姿を思ひ浮べて、傷ついた心で這入つて来る弟が、この冷たい親子の間をなんと感じるであらう、兄さへ優しい心になつてくれれば凡ては温かく運ばれて行くのに、と思つた。佐七は懐中してゐる手紙が鉄のやうに重くなつて来たのを感じ、深い溜息を、しかしそれも低く何かを恐れるやうに吐いた。そしてじつと黙してゐるのが堪へられなくなり、何か言はねばならぬと思ひながら、どこにもいとぐちのない思ひであつた。佐吉はじつと眼をつぶつてゐたが、すぐ横にゐる二人の様子が見えるやうに心に映り、みなと同じく息苦しい気がしたが、知るものか、と強ひてふてぶてしい気持になつた。父は淋しいに違ひない、悲しいに違ひない、しかしさういふ姿を見たといつて、どうして父が許せるだらうか、父を許すといふことは、即ちこの現実を許すことではないか、俺の良心が(もしそれがあるものとして)どんなに父を愛してゐようとも、俺の精神がこの現実に屈伏しない限り、俺はあくまでも父を許さぬ、またどうしてこの恐るべき現実が肯定出来るだらう。彼は眠らうと思つた。それがこの場合父を拒否する唯一つの方法だと思へた。しかしさつき繃帯を換へた時冷やした腕は、温まり始めると忽ち激しく疼き出す。温まつてしまふといくらか楽だつたが、それまでは、反動のやうに強く痛んだ。
「うむうむ。」
と彼は一つ唸つて、父に背を向けて寝返つた。
「痛むの?」
とふゆ子が言ふと、佐七も首をのばして、
「痛むのかい。」
佐吉はそれには答へないで、
「ふゆ、湯ざましをくれ。」
「はい。」
けんどんの上に置いた湯ざましを取つてやると、佐吉は片手でそれを受け取り、ごくごくと音を立てて服み、
「何か用があるのか、用がなければもう帰つてくれ。」
とふゆ子に言つた。
「何か食べたいものはないか、の? 佐吉。」
と佐七が言つた。思ひ切つて手紙を見せようかどうかと逡巡し、その勇気がなくついさういふ言葉が出た。
「なんにも食べたくない。ちちちッ、ふゆ、今幾時だ。」
「十分過ぎよ、八時。」
八時になると病室廻りの当直看護婦が注射をうちに来る。と、果して入口があいて白い服が這入つて来た。
「注射ですよ。」
と看護婦は小さな声で、しかしみなに聴えるやうに叫んだ。
「お願ひします。」
とふゆ子は看護婦に言つた。彼女はふゆ子を見ると、
「痛むの? さう、大変ね。あんたお丈夫?」
と愛想を言ひながら靴音を立てた。
「ええ、おかげさまで。」
大きなマスクで顔の半分はかくれてゐたが、その黒い眉を見ると、ふゆ子は急にみじめな思ひがし、顔をうつむけて言つた。佐七は本能的に二人を見較べて、ふゆ子の不幸が強く心を打つて来たが、看護婦が来たことによつてかもされた小さな空気の変化にほつとし、この機会に手紙を見せようと考へた。
注射をすませ、彼女の姿が廊下の果にぽつんと白いかたまりになつて消えると、
「佐吉。」
と彼は息子に呼びかけた。声が少し顫へ、眼色がおどおどと動いた。そして次の言葉に迷つてしまつた。
「なんですか。僕痛んでしやうがないから、独りになりたいのです。」
あんたなんかゐたとて何にもならない、といふ意が含められてゐるのを佐七は感じ、動き始めた心をぴたりと押へられてしまつた。
「佐吉……お前何か用はないか。」
さう言つてしまつて佐七は、がつくりと力の抜けるやうに絶望した。
外へ出ると、二人は黙々と暗い道を並んで歩いた。冷たい空気が顔にかかつて、佐七は
「ふゆ、お父さんが悪いんだよ。けれどのう、しやうがない。どうにもしやうがないんだよ。」
ふゆ子は父の顔を見、
「
と言つたが、眼からは涙が出て来た。
「――来るのは
「あさつて――。」
「でもまだ発病したばかりだから、治療すれば軽快退院出来ると思ふわ。」