淸盛出でゝ中御門氏に依る。大治中、左衛門尉に任ず。累遷して從四位下安藝守に至る。海に航して任に赴くとき、魚の其舟に入るあり。或人曰く、「家を興すの兆なり」と。
皇室是より先、鳥羽の太子禪を受く。是を崇德帝とす。帝の母璋子【璋子】大納言公實の女幼きとき、白河法皇に養はる。法皇之を鍾愛す。長ずるに及びて衰へず。頗る物議に涉る。崇德天皇鳥羽、是を以て崇德を子とし視給はず。戱に之を目けて叔父兒といふ。鳥羽の寵姬を得子【得子】中納言長實の女といひ美福門院と號す。皇子體仁を生む。崇德をして養ひて太子と爲さしむ。四歲にして禪を受く。是を近衛帝とす。帝崩じて崇德位に復せんことを希ふ。崇德の皇子重仁又長じて賢なり。中外望を屬せり。而して美福、近衛の蚤世を以て呪詛に出づとし、乃密に鳥羽に勸め、崇德の同母弟雅仁を立てらる。是を後白河帝とす。朝野駭然たり。
藤原賴長崇德、憤恚して、左大臣藤原賴長を召して、之に語るに情を以てす。賴長慧黠なり。世惡左府と稱す。兄の忠道と權を爭ひ逞からず。上皇をして位に復せしめて、己れ柄を專にせんと欲す。乃慫慂して兵を擧ぐ。物情恟然たり。
保元元年保元元年七月、法皇崩ず。即夜これを葬る。上皇遂に兵を擧げて、
白河殿に
據る。