兼ぬ。世呼びて平將軍といふ。
貞盛の子貞盛四子あり。季維衡最勇なり。平致賴、源賴信、藤原保昌と名を齊くし、四天王と稱す。下野守に任ず。後私に致賴と鬪ひ、謫せられて淡路に徙る。貞盛又從子維茂を養ふ。亦勇敢維衡に亞ぐ。維衡の曾孫正盛、武幹あり。時に平氏、源氏と並に武臣たり。而して源義家功を邊陲に樹て、宗黨尤强し。其長子義親、對馬守たり。九州を剽掠し、官使を殺して、隱岐に流さる。逃れて出雲に歸り、吏を殺して貢賦を奪ふ。勢甚だ猖獗なり。是に於て正盛に詔して追討使となし、驛鈴を賜ひ、兵を率ゐて之を討ち、義親と戰ひ、其首を斬りて、京獄に梟す。天仁元年時に天仁元年なり。
忠盛正盛、
忠盛を生む。忠盛、伊賀、伊勢の間に居る。人と爲り、一目
眇なり。大治中、山陽、南海に盜起る。忠盛
追捕して功あり。白河、
鳥羽、二上皇に事ふ。並に寵あり、
得長壽院鳥羽上皇、得長壽院を建つるや、忠盛を以て役を
董さしむ。役
竣りて、但馬守に叙し、昇殿を
聽す。擧朝之を
憎む。
豐明節會【豐明節會】十一月中の辰日之を行ふを以て、
暗に乘じ、之を
刺さんと謀る。忠盛曰く、「朝すれば則ち
詬を
蒙り、朝せざれば
怯となす。其宗を
辱むるは一なり」と。
忠盛銀刀を帶して殿に昇る乃刀を帶びて入る。家人平
家貞、其子
家長と
冑を
衷して從ふ。