爲義、將に東國に遁れんとすれども、病みて行く能はず。蓑浦に抵る。追兵來り薄る。諸子力戰して之を郤く。士卒盡くるに垂とす。乃、髮を削り、義朝に因りで降を請はんと欲す。爲朝、諫めて曰く、「上皇は、帝の同母兄なり。而して左府は關白の親弟たり。聞く、『上皇已に讃岐に遷り、左府も亦死せり』と。骨肉の恃む可からざる此の如し。大人盍ぞ鑑みざる。東國に赴き、其豪族に倚るに若かず官軍卽し來らば、兒爲に力を竭さん。力盡きて後に死せん。亦可ならずや」と。聽かず。遂に出でゝ降る。初め淸盛、敕を奉じて爲義を索むれ共得ず。會平忠政出でゝ降る。其叔父なり。素より與に隙あり。斬りて之を献じて、以て義朝を搖かす。詔あり。義朝をして爲義を斬らしむ。義朝數己れが戰功を以て其命を贖はんことを請ふ。帝怒りて曰く、「淸盛よく叔父を誅しぬ。義朝獨り父を誅する能はざるか。果して能はずんば將に淸盛に命じて之を斬らしめん」と。義朝憂懼して出づる所を知らず。之を鎌田政家に謀る。政家對へて曰く、「此れ臣が敢て議