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べし。卽し利あらずば、關東に幸せよ。臣、家人を糾合して、輿を奉じけつに復せん。臣之をはかるに難からず」と。賴長ゆるさず。爲義退きて言て曰く、「吾れ死所ししよを知らず」と。其六子、賴賢よりかた賴仲よりなか爲宗ためむね爲成ためなり爲朝ためとも爲仲ためなかと、八甲を分ちて之をつらぬき、一を義朝に送る。爲朝軀幹くかん大にして、服る可からず。乃、他の甲を服し、獨二十八人を以て西門を守る。餘子ことく父に從ひ、百騎をて南西の門を守る。平忠政たゞまさ等の諸將は、兵數百をて、分れて諸門を守る。

義朝、禁内きんだいに在り。關白くわんぱく藤原忠通たゞみち以下、聚議しうぎして决せず。義朝しば之をうながす。詔あり、義朝を階下に召して、計を問ふ。對へて曰く、「勝を一きよに取るは、夜攻に若くはなし。臣聞く、『南都の兵千餘、上皇のめしに應じて、已に宇治にす』と。宜しく其未だ至らざるに及びて之を擊つべし」と。之に從ふ。詔あり、「戰勝たば昇殿しようでんを聽さん」と。義朝對へて曰く、「武臣義に赴く、生きて還るをせず。臣請ふ、を拜して死なん」と。衣をかゝげて昇る。藤原通憲みちのり奏して曰く、「彼の會祖、祖父甞て昇殿を聽さる。而して父は則未だし。子を以て父にさきんするは若何いかん」と。詔して曰く、「問ふ勿れ」と。義朝感喜かんきす。えいかへるときむち車傍しやぼうけて曰く、「我れし戰死せば、誰か我が昇殿を得たるを知らん。此れ之をしるすなり」と、乃、