このことは癩患者の配偶者にも当てはまるということも確かなようである。これに関連して注目に値することは、大多数の他の伝染性疾患と異って、未だ実験的感染に成功していないことである。(中略)〔ママ〕過去数一〇年間に或る国々で採られた対策を検討すると、次のような矛盾が見られる。隔離政策がどちらかといえば自由な所では、癩は減少し殆ど全く消失しているのに、一方、峻烈な対策が採られたにも拘わらず癩の発生は余り又は全く変りがない所がある。」として、隔離政策の正当性・有効性に疑問を投げかけている。
7 らい患者救済及び社会復帰国際会議 (ローマ会議、昭和三一年)
マルタ騎士修道会によって開催されたこの国際会議では、「らいが伝染性の低い疾 患であり、且つ治療し得るものである」として、次の決議をした。
㈠a らいに感染した患者には、どのような、特別法規をも、設けず、結核など他の伝染病の患者と同様に、取り扱われること。従って、すべての差別法は廃止さるべきこと
b (前略)〔ママ〕啓蒙手段を、注意深く講ずること
㈡a 病気の早期発見及び治療に対し、種々なる手段を講ずること。患者は、その病気の状況が、家族等に危険を及ぼさない場合には、その家に、留めておくべきこと (以下略)〔ママ〕
b (前略)〔ママ〕入院加療は、特殊医療、或は、外科治療を必要とする病状の患者のみに制限し、このような治療が、完了したときには、退院させるべきであること
c 児童は、あらゆる生物学上の正しい手段により、感染から、保護される可きこと (以下略)〔ママ〕
d 各国政府に対し、高度の身体障害者の為に、厚生省、農林省、文部省等の政府機関を通じ、彼等の保護及び、社会復帰に関し必要な道徳的、社会的且つ医学的援助を与えるよう奨励すること (以下略)〔ママ〕
なお、成田稔 (元日本らい学会会長、多磨全生園各誉園長。以下「成田」という。) は、東京地裁の証人尋問において、差別法の撤廃や社会復帰の援助を提唱したこの会議は極めて重要な意義を有している旨証言している。
8 第七回国際らい会議 (昭和三三年、東京)
この会議では、ハンセン病治療におけるスルフォン剤の優位が変わらないとの認識の下、ハンセン病予防には患者の早期発見・早期治療・外来治療の整備が重要であることを指摘し、「外来患者治療に必要な病院は、患者の大部分がくるのに便利な位置に置くべきであり、また適切な病院数が必要である。」とされた。そして、社会問題分科化会においては、「政府がいまだに強制的な隔離政策を採用しているところは、その政策を全面的に破棄するように勧奨する。」、「病気に対する誤った理解に基づいて、特別ならいの法律が強制されているところでは、政府にこの法律を廃止させ、登録を行っているような疾患に対して適用されている公衆衛生の一般手段を使用するようにうながす必要がある」との決議がなされた。
この会議の報告には、「菌を排泄し、隔離に対して満足な条件が他人に対して保てないような患者では、これを収容所へ隔離する要求を行いうる権力を衛生官はもっているべきである」との部分もあるが、基本的には「強制収容は廃止すべき」との見解に立っていることは明らかである。
なお、この会議では、子供に対する家庭内感染を防止するために、未感染の子供の方を患者から遠ざける方策を採ることが勧告されている。
ところで、小沢龍厚生省医務局長は、この会議において、現在の患者数が明治三七年の実態調査時と比較して約二分の一に減少し、入院患者、在宅患者とも高年齢となり、日本におけるハンセン病の流行が極期を過ぎたとしながら、「まだ在宅の未収容患者が相当あり、これらが感染源となっているので早期に収容することが望まれ」ると発表した。この報告について、大谷は、その著書の中で「日本だけが隔離こそ唯一のハンセン病対策であるとして、未だに日本の完全隔離主義を間違って誇っていたのだ。」と指摘する。
9 WHO第二回らい専門委員会 (昭和三四年、ジュネーブ。なお、報告書は昭和三五年に発行)
この委員会の報告では、①従来のハンセン病対策が患者隔離に偏っていたため、療養所の運営、経営に終始していたものを廃し、一般保健医療活動の中でハンセン病対策を行うこと (インテグレーション)、②したがって、ハンセン病を特別な疾病として扱わないこと、③ハンセン病療養所はらい反応期にある患者や専門的治療を要する者、理学療法や矯正手術の必要な後遺症患者等の治療のため、患者が一時入所する場であり、入所は短期間とし、可及的速やかに退所し、外来治療の場に移すこと、④家庭において小児に感染のおそれのある重症な特別なケースは治療するために一時施設に入所させることがあるが、この場合も、軽快後は菌陰性を待つことなく、可及的速やかに外来治療の場に移すこと、療養所入所患者は最小限度に止め、らいの治療は外来治療所で実施するのを原則とすることなどが提唱された。そして、「当委員会は、近時の諸会議における次の見解を強く指示する。すなわち、らいは他の伝染病と同じ範疇に位置付けられるべきであり、そうしたものとして公衆衛生当局によって扱われるべきである。こうした原則に適合しない特別の法制度は廃止されるべきである。」とされた。
10 第八回国際らい会議 (昭和三八年、リオデジャネイロ〉
この会議では、「この病気に直接向けられた特別な法律は破棄されるべきである。一方、法外な法律が未だ廃されていない所では、現行の法律の適用は現在の知識の線に沿ってなされなければならない。(中略)〔ママ〕無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止されなければならない。」として、昭和三一年のローマ会議以降繰り返されてきたハンセン病特別法の廃止が一層強く提唱された。
第五 新法制定前後のハンセン病の医学的知見
一 感染・発病のおそれについて
ハンセン病が感染し発病に至るおそれの極めて低い病気であることは、既に述べたとおりであるが、このことが新法制定前後においてどの程度認識されていたのかについて、以下検討する。
1 一九世紀までの病因論の状況等
ハンセン病医学の権威でありハンセンの義父でもあるダニエルセンは、一八四七年に発表した論文において、疫学調査の結果を基にハンセン病の病因について遺伝説を唱え、以降、伝染説が承認されるまで、ヨーロッパでは、遺伝説が支配的であった。ダニエルセンが、遺伝説の正当性を証明するために、自分や看護婦、看護助士、シスター、梅毒患者らに繰り返しらい結節を接種し、その結果がことごとく陰性であったことはよく知られているが、このエピソードは、多数の症例を見ていたであろうダニエルセンがハンセン病が決してうつらないと確信していたことをうかがわせるものである。
伝染説が国際的に確立されたのは明治三〇年の第一回国際らい会議においてであるが (前記第四の一1)、この会議において、ナイセルは、ハンセン病の伝染性は顕著でない旨述べており、これに反対する見解が示された形跡はない。
我が国には、奈良時代以前からハンセン病が流入していたようであるが、大流行の記録はなく、古くからハンセン病は「業病」とか「天刑病」であるとして差別・偏見・疎外の対象とされてきたことからみても、もともと、ハンセン病が伝染する病気であるという認識はなかったか、あったとしても極めて希薄であったと考えられる。明治時代以降も、我が国では、少なくとも第一回国際らい会議まで、遺伝説が支配的で、伝染説は容易に受け入れられなかった。
2 人体接種の試み
ダニエルセンと同様の人体接種は多数試みられているが、必ずしも成功していない。陽性となったのは二二五例中わずか五例 (約二・二パーセント) といわれており、その陽性例にも疑問視されているものもあって、確実な陽性例はないともいわれている。このことは、「日本皮膚科全書」(昭和二九年発行) や (昭和〔ママ〕「らい医学の手引き」(昭和四五年発行) に記載されている。また、日戸修一の「癩と遺伝」(昭和一四年発表)、「細菌学各論I」(昭和三〇年発行) にも人体接種についての同様の記述がある。
このような人体接種の結果は、それ自体、ハンセン病が感染し発病に至るおそれが極めて低いことをうかがわせるものであり、また、我が国でも新法制定以前からその認識があったことがうかがわれる。
3 第一回国際らい会議 (明治三〇年) 以降の国際的知見
㈠ ウルバノビッチは、明治三五年に発表した論文「メーメル地方におけるこれまでのらい治療経験について」において、「らいが接触伝染をすることは、今日では全く確実とみることができる。少数の例外はあるが、らいは貧困な人たちの病気である。これは伝染が起こりにくいので、その実現には過密居住による密接な接触が必要だからである。」旨記述している。
また、キルヒナーも、昭和三九年に発表した「らいの蔓延と予防」において、「らい菌は人体外では比較的急速に死滅するので、かなり長期にわたる接触によってのみ感染が成立する。」旨記述している。
㈡ ハンセン病が感染し発病に至るおそれの極めて低い病気であることは、以下のとおり、国際らい会議においてもしばしば確認されている。
⑴ 第二回国際らい会議 (明治四二年) では、らい菌の感染力が弱いことが確認されている (前記第四の一2参照)。
⑵ 第四回国際らい会議 (昭和一三年) では、「らい者と共に働く者でも、感染に対し合理的注意を払えば殆ど感染しないという事実を歴史は示している。」とされている (前記第四の一5参照)。
⑶ WHO編「近代癩法規の展望」(昭和二九年) は、「或るばあいには、たとえば結核よりも伝染性がずっと少い」とし、「衛生上の初歩的規則が守られている処では、療養所の職員には伝染の危険は殆どないし、このことは癩患者の配偶者にも当てはまる」としている (前記第四の二6参照)。
⑷ ローマ会議 (昭和三一年) でも、決議の冒頭で、「らいが伝染性の低い疾患であり、且つ治療し得るものである」とされている (前記第四の二7参照)。
4 第一回国際らい会議 (明治三〇年) 以降の国内の知見
第一回国際らい会議以降の我が国における知見は、次のようなところから伺い知ることができる。
㈠ 戦前の文献等
⑴ ドルワール・ド・レゼー神父の見解等
ハンセン病に関わった多くの人々が、経験的に、ハンセン病が伝染し発病に至るおそれの低い病気であることを認識していたことは想像に難くない。例えば、神山復生病院長のドルワール・ド・レゼー神父は、明治四〇年、その著書の中でハンセン病の伝染力が微弱である旨記述している。
⑵ 北部保養院長中條資俊の見解
北部保養院長中條資俊は、昭和九年に発表した論文「癩伝染の徑路に就て」において、「軒並である一方は癩家族他方は非癩家族であった場合に、此両家が血縁でない限り、非癩家族の方に癩の現れた例はないと見られてる様なこと」や「癩と非癩者の夫婦の場合 (中略)〔ママ〕判然と伝染を起した実例に乏しい」ことなどを挙げて「癩の伝染力が極めて弱い」、「癩患者と接触しても、感受性即ち素因の有無に依って伝染を受けると否との別があり、それは恰も物体に可燃質と不燃質があると同じ様に考へら