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面化するよう命じ、これを疏明資料の一部とし、さらに一件記録を沖中検事に閲覧してもらったうえ、青森地方裁判所弘前支部に原告隆に対する殺人の罪で逮捕状を請求したこと、右請求をするに至った主たる理由は、⑴犯行現場から原告隆宅に至る路上に連続して血痕があったこと、⑵松木医師の鑑定により原告隆が同月二一日〔乙4〕方に預けて帰った本件白靴に被害者の血液型と同じB型の血液が付着していることが判明したこと、「原告隆は、同月七月、〔乙4〕方に赴き、警察が来たら同月六日には〔乙4〕宅に泊ったといってくれと頼むなど故意にアリバイ工作を行なっていること、などによるものであったこと、請求後間もなくして逮捕状が発付されたので、本件捜査に従事していた司法警察員〔丙12〕ほか一名は、同月二二日午後七時五〇分ころ、弘前市警察署において、任意取調べ中の原告隆を本件の被疑者として逮捕したこと。
 ㈢ ところで、前示のように、本件白靴の検査に当った松木医師は、捜査当局から正式の鑑定嘱託を受けたものではなく、いわゆる当りをつけるために一応の検査を依頼されたに過ぎないこと、本件白靴は本件を解明するのに最も重要な物的証拠であり、したがって、後に裁判で問題とされる場合を考え、刑訴法に則り別の権威ある鑑定人に正式の鑑定をしてもらう必要があったこと、そこで同月二三日夜の捜査会議においてなされた決定に基づき、弘前市警察署長は、同月二四日、当時の青森医学専門学校(のちの弘前大学医学部)法医学教室の引田一雄教授に本件白靴の鑑定を嘱託したこと、引田教授は、同日、本件白靴の右紐に付着していた小指頭大の褐暗色の斑痕一個につきベンチジン試験を実施したところ陽性の反応を示さず陰性であり、さらに本件白靴に付着していた暗色斑痕につきルミノールによる化学発光検査法を実施したところこれも燐光を発しなかったこと、そのため同教授は本件白靴及びその紐に付着している斑痕は血液との確証を得ないとの鑑定をなし、その旨記載した同年九月一日付鑑定書を作成して弘前市警察署長に提出したこと。
 ㈣ 引田教授の本件白靴に関する石鑑定において、いずれも血液が付着しているとの鑑定結果が得られなかったため、山本署長はただちに検察庁に赴き、沖中検事にその旨を報告したこと、そして、同年八月二四日夜の捜査会議の席上、右鑑定結果には納得し難い旨の議論が続出したため、改めて国家地方警察本部科学捜査研究所(以下「科捜研」という。)等の最も権威ある機関へ再度鑑定を依頼することに決したこと、そのころ沖中険事もそのことに同意していたこと、同月二五日ころ、捜査当局の職員は、引田教授がまだ鑑定を終えていなかったにもかかわらず、同教授のもとから本件白靴を含む鑑定資料全部を明確な理由も告げずに持ち帰り、同月二六日ころ、国家地方警察青森県本部を通じて科捜研へ鑑定を依頼したこと。
 ㈤ 科捜研法医学課警察技官〔丙3〕、同平嶋侃一の両名は、同年九月一日から同月一〇日まで鑑定に従事し、本件白靴につき、ルミノール反応試験、ベンチジン反応試験、ヘミン結晶試験、ヘモクロモーゲン結晶試験等を行なったが、その結果、ルミノール反応試験においては中等度の螢光を発し、その部分についてのベンチジン反応の試験においては弱陽性の反応を示し、ヘミン結晶試験及びヘモクロモーゲン結晶試験においてはいずれも陰性であったので、同鑑定人らは、「白色ズック靴よりの血痕は証明し得ず」との鑑定をなし、その旨記載した同月一二日付鑑定書を作成提出したこと、本件白靴については、以後公訴提起までの間に鑑定がなされたことはないこと。
 ㈥ もっとも、⑴松木明作成の昭和二四年一〇月四日付鑑定書及び⑵松木明・〔丙〕作成の本件白靴に関する同月一九日付鑑定書の記載によれば、右⑴には同年八月二〇日と同年一〇月四日の二回、右⑵には同月一七日午後四時から同月一八日午後四時まで、それぞれ鑑定をしたと記載されているが、 これらはいずれも事実と異ること、すなわち、⑴の鑑定書は同年八月二一日午後一一時ころから翌二二日午前二時ころまでの間に行なわれた本件白靴に関する第一回目の検査結果を記載したものであり、例の鑑定書は同日午前九時ころから同日午後三時ころまでの間に行なわれた本件白靴に関する第二回目の検査結果を記載したものであること、右のように事実と全く異る記載がなされたのは、松木医師の検査がそもそも正式の鑑定としてなされたものではなく、捜査の進展につれてその都度捜査本部からの口頭の要請に基づき、当りをつけるために捜査上必要な初歩的な検査として行われたものであり、その検査結果も当初松木医師が自分のノートに手控えていたところ、本件での血痕鑑定がすべて終了し、もはや血液に関する検査をする必要がなくなった同年一〇月下旬ころ(証人松木明の証言によれば、その時期は、起訴後の同年一〇月末ころである。)、松木医師の国家警察青森県本部の刑事部長から、これまでの一連の検査結果を警察の記録として残して置きたいのでメモ程度でよいから簡単に書いておいてほしい旨依頼され、鑑定作業を手伝ってくれた〔丙〕技手にその旨の報告書を作成してもらったところ、その後やはり鑑定書という形式の書面にしないと都合が悪いといわれ、しかも正式な鑑定書とはしないという前提であったため、同技手に一連の検査結果を鑑定書に書き改めてもらい、自らも一応目を通したうえこれに押印したことによるものであること、 そして、その際内容の不備な点や事実と異なる点もあったが、これは正式な鑑定書とはせず、科捜研や東北大学における鑑定書を正式のものとするという捜査当局の言を信じ、ごく軽い気持ちで鑑定書と題する各署面に押印したものであること、鑑定嘱託書も後日形式を整えるために作成されたものにすぎず、松木医師は鑑定嘱託書を受け取ったことはないこと、右の事情は、本件捜査過程における松木明作成名義の鑑定書すべてに該当すること。
 ㈦ 昭和二四年一〇月四日付松木鑑定書