コンテンツにスキップ

Page:EkiToJinsei.djvu/20

提供:Wikisource
このページは校正済みです

ではないかと思ふ。例へば人と交はるに道德上の考へがなくて交つ てはいかぬとか幾らか自分の腹の修養が出來て居つて交はる。さう いふ考へがあつてやる方が宜いだらう。或は逆境に處した時は尙更 のことであるが、どういふ心持でやつたら宜いかといふやうな根本の 心持を作つて置くといふことに就ては確かに周易が一の助けになる と思ふ。之は先づ第四段になるのである。

 夫から又最後に一つ周易からして吾々が益を得る点は斯ういふこ とにあると思ふ。逆境に處して泰然自若たり、順境に處して必ずしも 順境のまゝに喜ばない。さういふ精神狀態を養ふのが肝要な点では ないかと思ふのである。言換れば人間の精神といふものを通常の感 情狀態より更に一段深くせしめて社會に處するといふやうな意味合 になつて來る。だから愉快に無闇に騷ぎ廻るといふやうなことはなく なつて來る、愉快に騷いだり或は直ちに哀んだりすることは或意味か