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二十九日。朝往いて公使を訪ひ、俱に朝餐す。公使容貌憔悴す。然れども軀幹偉大なり。言辞は甚謙にして、絕て夸大の氣象なし。曰く性酒を嫌ふ。一滴咽を下すこと能はず。因りて常に「シヨコラアデ」Chocolade を喫す。近衞公身体豐實、語氣活發、華族中の人とは思はれぬ程なり。姉小路は曾て來責にて相識る。聞く氏は素と宮中の小舍人なり。其學資は、聖上より出ず。他年公使となるは、恐くは此人ならんと。彌一郞ボン Bonn に留學す。愛す可き少年なり。夜公使の一行と英吉利骨喜店 Englisches Café に至りて樂を聽く。公使余に問ふに麥飯の利害を以てして曰く。參議などの貴官は今皆麥飯を喫すと。余大澤の論を是とし、高木の說を非とし、毫も翼蔽する所なし。公使又曰く。諸君善く酒を飮む。曾て聞く。拜焉の民飮むに「マアスクルウグ」Maasskrug を以てすと。諸君も亦時に之を用ゐること無きかと。余近衞公、加藤照麿と一「クルウグ」Krug を傾く。歡を竭して歸る。「クルウグ」は一「リイテル」の麥酒を容るゝ陶器なり。

三十日。朝公使及姉小路伯を送りて停車塲に至る。午後近衞公、加藤、岩佐とウルム湖に遊ぶ。近衞公加藤と角觝の戲を作す。其相對するの狀を見るに、公は身短くして肥え、加藤は長くして瘦す。觀者皆笑ふ。已にして加藤を攫み、一間許りも投げ出したり。其膂力想ふ可し。加藤は是より數日間頭痛に苦みたり。是より余公と競走を爲す。余敗北す。然れども角觝と違ひ、頭痛だけは免れたり。

三十一日。近衞公と彌一郞を送りて停車塲に至る。

八月五日。(永)松篤棐ヴユルツブルク Wuerzburg より來る。秋琴居士の子なり。植物學を修む。容姿あり。翩々たる貴公子なり。是より先き、余等晝餐の後加藤、岩佐と シユワアンタアレル街 Schwanthalerstrasse なるフインステルワルデル Finsterwalder の咖啡店に至り、一時間許會話するを常とす。店に婢ありアンナ Anna と呼ぶ。ダツハウ Dachau の產、甚だ美ならず。余等每に之に戲る。婢加藤を呼びて美學士 schoener Doctor となし、岩佐を惡學士 boeser Doctor となし、余を正直學士 braver Doctor となす。加藤は皙白なるを以ての故、岩佐は多く惡謔を爲すを以ての故、余は色氣なく眞面目なるを以ての故なり。今や永松來りて美學士の名はこれに