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ロ、サン、ミキエル Cimitero St. Michiell と曰ふ。業成る後之を日本に報じたりしが、果々しき返事も無し。惟直と惟準とは何如なる親疎の關係あるにか。墳墓は兎まれ角まれ、困難なるは惟直君の遺胤の事なりと。余驚き問ひて曰く。遺胤とは何如。長沼の曰く。惟直君はこれを日本政府に秘したれども、伊太利の一女子と宗門上立派なる結婚の式を行へり。既にして一女兒を擧ぐ。今母と共に存す。惟直君の歿するや、母子若干の遺金を得たり。而れども是金も亦竭きたれば、窮困の狀見るに忍びず。遺子の面貌は太だ惟直君に似たりと。余長沼に問ふに母子の居を以てす。曰く。家の番號などは記せざれどプゴ橋 Ponte di puguo といへる橋を渡り、收生女 Leratrice の家を問ふべし。母子此に寓せり。然れども君其貧苦の狀を見ば、必ず盤纏を輕くするならんと。日本人の歐洲に在りて兒を生ませしは、獨り惟直氏のみならず。既に伯林にも梅某の子、中村某の子あり。皆面色黃を帶び、骨格邦人に似たりと云ふ。梅某の情婦は余伯林に在りしとき、余と俱に一盞の咖啡を喫したることありき。客窓排悶の末、遺子を海外に留むるは、其情より論ずれば、復た怪むに足らず。唯〻撫育の費を送らで、母子をして飢餓に逼らしむるは、いと悲む可き事なり。獨乙の法、一兒の養育料は大槪一時二千麻を投じて足る。留學生の如き、此資力なくして醜を遺すならん。

十八日。長沼と神女堡 Nymphenburg に遊ぶ。途に二兒に逢ふ。所謂「チゴイネル」Zigeuner (Githanos) なり。面色黧黑、眼光烱々たり。余の曰く。汝等余と神女堡に遊ぶに意なきか。曰く。何ぞ敢えて辞せんと。乃ち之を伴ひて行く。二兒は府內の咖啡店に在りて、胡弓を鳴らし錢を求むるものなり。遊人余等を見て、或は四個の日本人を見よと呼び、或は四個の「チゴイネル」Zigeuner を見よと呼ぶ。遂に彼此を辨ずること能はざるなり。余長沼と相見て大笑す。既にして神女堡に至り、麥酒一樽蘿蔔數根を買ひ、樹陰に坐して飮啖す。路上多少の艶郞妖姬、皆驚いて此奇異なる群を顧盻す。日歿の頃家に歸る。

二十七日。長沼去りてストラアスブルク Stassburg に赴く。

二十八日。公使品川彌二郞、其子彌一、近衞公、姉小路伯と伯林より至る。拜焉客舘 Bayrischer Hof に投ず。